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紺碧の将

鬼怒沼で発見

2010.09.11

 いま、どういう時に自分の「体と心」が喜んでいるか、耳を澄まして自分の内側を覗き込むと、案外わかるものである。例えば、ギューギュー詰めの満員電車にいる時と爽やかな潮風の吹く海岸沿いのリゾートホテルにいる時では明らかに違いがあるので耳を澄ます必要はないが、他のあらゆる場面で微妙な違いを感じ取ることができるはずだ(もちろん、人間とは得体の知れない生き物だから、稀に「いや、俺は満員電車の中で人に押しつぶされそうになっている時の方がゾクゾクしていい」「人の息がムンムンしている状態がいい」と言う人がいるかもしれない)。

 最新の拙著にも書いたが、朝起きて、今日はいやだなと思ったのが果たしていつだったか、とんと思い出せないくらい充実した日を過ごしている私であるが、とは言っても、「今日はとてもいい日だった」という日と「今日はまあまあの日だった」という日があるのは致し方ない。いつも「very good」だったら、それが当たり前になって、その価値が失われてしまう。時には「not so bad」という日があってもいい。

 

 先日、鬼怒沼に登った。「沼」と名がつくが、標高2000メートルを超える立派な山である。栃木県と群馬県の県境にある。3年ほど前に初めて登り、とても印象に残っていた山である。

 なぜ、印象に残っているかと言えば、登り切った頂上に、いくつもの沼を有する広大な湿原があるからである。右上の写真を見ていただければわかるが、とてもこの風景が標高2000メートル以上にあるとは信じがたい。下界は猛暑だと大騒ぎしていたが、ここはほどよい温度の空気が澄み切っており、空が近い。沼の水面に映る空や雲はまるで生き物のように刻々と変化し、いまにも龍が現れそうな気配さえ漂っている。微かな風が水面にさざなみを作っているのだが、それが流れいく雲をさらに生き物のように見せてくれる。まさに万華鏡のごとく、幻想的な光景だった。

 また、山の途中、木々の生態を注意深く見つめると、自然の治癒能力に驚かされることが多い。例えば、地上に露出していた太い根っこが登山道を塞ぐことがないよう、途中で断裁されていることがあるが、樹皮が伸びて断面を覆い隠しているものや、その途中のものなど、木の自然治癒の過程が如実にわかるのだ。まさに、自然観察のライブラリー! 宮崎駿の『もののけ姫』さながらの世界が繰り広げられていた。

 というわけで、自然の中にいる時の自分は、体も心も喜んでいるのである。もちろん、都会の中でもそういう状態になれることは多い。どういう時かって? 気の合う人と会っている時や先人たちが残してくれた芸術を味わっている時など、無数にあることは言うまでもない。

(100911 第190回 写真は鬼怒沼の頂上にある最も大きな沼)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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