多樂、怒る
約10年ぶりに名古屋城を訪れた。前回は関ヶ原へ行った後に訪れたのだが、「何も感じるものがないな」という印象しか残らなかった。
なぜそうなのか、今回わかった。
歴史的遺産としてではなく、遊園地のような扱いをしているからだ。
たしかに子どもたちが楽しく学べることはいいことかもしれない。しかし、「歴史的遺産に敬意をはらうならば、こうはしないだろうな」と思えることが名古屋城にはたくさんある。
それよりなにより、この城を大事にしているという気持ちが伝わってこない。木製の階段は汚れ、埃がたまっている。毎日心をこめて磨いていれば、木は飴色になり、独特の艶を出すのに。
とまぁ、名古屋城の話はこれくらいにして……。
5月3日、憲法記念日の朝刊に全段の意見広告が掲載されていた。
「基地はいらない」「核の傘もいらない」「人間らしく生きたい」「9条・25条実現」という大きな見出しがある。本文を読むと、基地は移転ではなく閉鎖せよとか、日米安保をやめろと書いてある。
平和を望むと言えばかっこいいが、早い話、自分たちにとって少しでも嫌なことは断固反対、というわがままな自己主張にすぎない。
いったい、どの国でこういう主張がまかり通るだろう。
今、日本の周りは外交問題が山積だ。いや、日本だけではなく、あらゆる国に外交問題がある。
外交交渉によって、それらをねばり強く解決するのも人間の英知だが、すべてがそうなるとは限らない。外交によって決着がつかない時、最後の手段として用意されているのが軍事的解決であり、正当な理由があれば、これは国際法に反するものではない。いや、「正当な」というのもアヤシイ。理由づけなど、どうにでもなってしまう。近年の湾岸戦争やイラク戦争を思い起こせばわかるだろう。要するに、適当な理由をこじつけて、戦争に発展させることは不可能ではないのだ。
この意見広告を出している人たちは、北朝鮮の核武装、韓国の竹島不法占拠、ロシアの北方領土不法占拠、中国の領海侵犯を解決しようと少しでも努力しただろうか。日米安保も基地もいらないと言うが、中国が100発以上ものミサイルを日本に向けて配備しているのに、われわれが安心して暮らせるのは、なぜなのかわかっているのだろうか。
基地もいらない、軍隊もいらないと主張するのは簡単だ。それは、「他人を絶対的に信用する」という前提があってのこと。自分たちが戦う手段をすべて放棄すれば、誰も侵略してこない、と思っているからこそ、あのような主張ができるのだろう。
この国はこの代で終わりにするわけにはいかないのである。次代を担う子供たちが安心して暮らせる社会を築く義務が私たちにはあるのではないか。
(100508 第166 写真は名古屋城)