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紺碧の将

「老子」の懐に抱かれて

2018.11.11

 毎朝、禅語を書きつけているということを以前書いた。覚えている禅語を使い終えた紙の裏に鉛筆で書くのだ。現在、覚えているのは428語。一回で20本くらい書き、最後までいったらまた最初に戻る。それを何度繰り返したことか。  

 それによって記憶力が増し、字が以前より自在に書けるようになった。なにより、禅の意味が少しずつわかるようになった。僧ではないのだから厳しい修行は必要ないと思っている私に、この方法はぴったりだ。厳しい修行をしようが自分なりの楽しい方法でアプローチしようが、結果的に心持ちが良くなればいいのである。

 それと合わせ、数ヶ月前から「老子」の言葉に取り組んでいる。これも何度か読んだだけではわからない微妙なところまで手を突っ込んでいる感覚を得ている。

 現在、象元第二十五。これは宇宙創生のくだりと言っていい。

 書き下し文はこうである。

 

 物有り混成し、天地に先んじて生ず。寂たり寥たり、独立して改らず、周行して殆(おこた)らず。以って天下の母と為す可し。吾、其の名を知らず、これに字(あざな)して道と曰(い)ふ。強ひて之が名を為して大と曰ふ。大なれば曰(すなわ)ち逝き、逝けば曰ち遠ざかり、遠ざかれば曰ち反(かえ)る。故に道は大なり、天も大なり、地も大なり、王もまた大なり。域中に四大有り、而して王も其の一に居る。人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。

 

 すごい! おそらく宇宙の成り立ちはこうだったのではないかと推測できる。

 混沌とした状態から天地が生み出された。それがやがてある秩序をもって統一された。秩序とは朝と夜の交代、四季のめぐり、生き物の誕生と死など、陰と陽の循環である。天は陽、地は陰。両者にはさまれ、万物が創生される。

 これらを生んだ根源「一(いつ)」はあるのかないのかわからないほど微妙なものである。名づけようがないからとりあえず「道」としよう。強いて「大」と言ってもいい。

 そんな感じで続いていく。

「老子」の根本は、秩序を法る力に心身を委ね、無理をしないということ。委ねていれば、物事はうまくいく。だから、柔弱なもの、臨機応変なもの、水のようなもの、赤ちゃんのようなもの、形が整っていないもの、谷のようなものを上位とする。反対に、屈強なもの、堅いもの、融通の利かないもの、傲慢なもの、主張し過ぎるものを嫌う。

「そんなこと言って、おまえはほんとうに宇宙の創生を見たのか?」と老子に反論したくなる人もいるだろう。

 なんとも言えない。なにしろ紀元前5世紀頃の話だから。ただ、少なくとも、現代人よりははるかに感覚が鋭敏で、微妙な動きをとらえることはできたはず。われわれときたら、なんにもわからなくなってしまった。方向感覚さえなくなっている。便利な道具ができて、感覚を使う機会が激減してしまったから。

 では、現代において「老子」に書かれているようなことを体感できるのだろうか。次号『Japanist』で紹介する北川八郎さんのように、45日くらい断食すればあるいはなにかを感じ取れるのかもしれない。もちろん、私にはとうてい無理な話であり、なんとも言いようがない。

 しかし、「老子」を深く知ることによって得たものがある。目に見えるものなど、些細なものなのだということ。それらに心を奪われているうちは、本心からの安寧など望むべくもない。

 さ〜て、今日も走ったあと、禅語と老子を書き連ねよう。

 

「美し人」

美の生活化―美しいものを人生のパートナーに

 

※悩めるニンゲンたちに、名ネコ・うーにゃん先生が禅の手ほどきをする「うーにゃん先生流マインドフルネス」連載中。第31話は「時が解決してくれる」。

https://qiwacocoro.xsrv.jp/archives/category/%E9%80%A3%E8%BC%89/zengo

(181111 第856回 写真は横山大観の『老君出関』の部分)

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