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紺碧の将

正気の沙汰ではない〝滅びの美学〟

2018.08.30

 戦況が著しく悪くなっても本土決戦を遂行し、〝一億総玉砕〟も辞さないという精神錯乱状態に陥っていた旧日本軍の大本営。三宅坂では海岸から近いため敵の襲撃を防げないとの判断から内陸地に大本営を移そうとした。その場所が長野県松代町だった。

 松代町は長野市に隣接している。たしかに東京・三宅坂よりは海岸から遠いが、甚大な代償を払ってこの地に大本営を移そうという発想が理解できない。まさに狂人の所業である。

 この工事は、昭和19年11月11日から翌年の終戦の日まで行われ、全工程の約8割が完成していた。当時の金額で、1億円とも2億円とも言われる巨費が投じられ、劣悪な条件の下、多くの若者や年端もいかない子供たちが過酷な労働を強いられた。

 地下壕の総延長は10キロ以上に及ぶ。現在、その一部が公開されているが、行けども同じ光景が続く。

 当時の日本軍部は戦争の勝ち方も知らなければ、負け方も知らなかった。勝ち方を知らないという点については、『失敗の本質』に詳しい。負け方を知らないというのは私の意見だが、感情に支配され、行き着くところまでいってしまうのだ。一億総玉砕など、正気の沙汰ではない。戦争に明け暮れたヨーロッパの国々は、どこで手を打つか、つねに冷静な判断を求められた。しかし、日本は明治の戦争以外、戦争の経験がなく、負けたことがない。作戦の失敗さえ想定できなかった大本営だ。降伏するなど、選択肢になかったのだろう。

 ふと、大河ドラマ『西郷どん』の一場面を思い浮かべた。追い詰められた薩摩兵の一人が「みんなで討ち死にだ!」と叫び、周りの兵士たちが「ウォー!」と雄叫びをあげる。いったい、みんなで討ち死にをして何が変わるというのか。犬死以外のなにものでもない。リアリズムがまったく欠如している。民衆はたまったものじゃない。

 つまり、滅びの美学というやつで、日本人はこういう散り方が好きなのである。しかも、「みんなで」というところがミソだ。

 戦後教育によって日本人の考え方は180度変わったかのような印象を持つ人も多いが、じつは情緒的には変わっていない。

 あの戦争の教訓を活かすにはシビリアンコントロールを効かせるだけではダメだ。いざという時、リアリズムをもった指導者が現れるよう、人材教育をしておかなければ。

 

※悩めるニンゲンたちに、名ネコ・うーにゃん先生が禅の手ほどきをする「うーにゃん先生流マインドフルネス」連載中。 第27話は「こんな広い世の中に、自分は一人しかいない」。

https://qiwacocoro.xsrv.jp/archives/category/%E9%80%A3%E8%BC%89/zengo

(180830 第838回 写真上は松代町旧大本営地下壕、下はその上にある舞鶴山)

 

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