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紺碧の将

自分の心はわからない

2009.03.28

 千鳥が淵に近い山種美術館は好きな美術館のひとつだが、いかにも狭いのが難点だった。「絵を鑑賞するモード」に入ってきた頃に、終わってしまう。だから、今年10月に広尾に新設移転と知った時は、これは良きことなり、と喜んだ。

 その山種美術館で今まさに移転前の企画展「桜さくらサクラ・2009 さようなら、千鳥が淵」が行われている。

 速水御舟、横山大観、菱田春草、東山魁夷、渡辺省亭、石田武などおなじみの作家が並んでいたが、どれか2枚をあげるから持っていけ、と言われたら(言われるわけないが)、迷わず加山又造と奥村土牛を所望する。

 又造の妖艶な夜桜は、さながら根本に死者の骸が眠っていそうな気配がプンプンしている。おどろおどろしい。一方、醍醐寺の桜を描いた土牛の「醍醐」はほんのりと暖かく、春ののどかな一日といった雰囲気。午睡のあとのぼんやりした安堵とども言えばいいのか。いずれも桜のある風景だ。

 それにしても、どうして桜という同じモチーフを描いて、これほどに異なるのだろう。やはり平安時代以降、日本の代表的な花として愛されてきたがゆえに、各人の思い入れが投影されるようになり、その結果として多様な「桜」が現れてきたのか。なるほど、タイトルも漢字・ひらがな・カタカナと3種の桜になっている。

 若い頃は桜前線がどうのとか皆で花見の宴をやるとか、軟弱なやつがそういうことを言っていると思っていた。もちろん、桜を見て美しいと思っていたが、私はあの「花見の宴会」が嫌いだったのだ。公園に汚い提灯なんかぶら下げて、野暮だと思っていた。

 ところが最近はそうは思わない。さすがに、みんなで花見の宴会をしようとは思わないが、したい人はそうすればいいし、一人で静かに愛でたい人はそうすればいいし、桜が嫌いな人はそれでいいのではないかと思うようになった。なにしろ桜に罪はないし、日本人に愛されるように桜そのものが頑張ってきたわけでもない。要はそれぞれの「桜観」があっていいのだ、と。

 桜の絵を見ながら、ふとそんなことを思った。

 そう言えば、狭いのが難点だと思っていた山種美術館だが、大きな荷物を持っていたりすると、事務所で預かってくれるなど、小さな美術館だからこそできる美点がある。

 これまた不思議なのだが、やっぱり山種美術館は千鳥が淵近くのあの場所で、あの狭さがいいのかもしれないと思うようになってしまった。

 自分の心はほんとうにわからないのである。

(090328 第90回 写真は同展のポスター)

 

 

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