多樂スパイス
HOME > Chinoma > ブログ【多樂スパイス】 > もしも愛読書を失ったら……

ADVERTISING

紺碧の将

もしも愛読書を失ったら……

2017.03.16

 先日、読売新聞の「空想書店」欄にカキ養殖家・畠山重篤氏の記事が載っていた。彼は森と海の連関性を学ぶ際、「人と対話をするには、文系の力が必要だ。(そのためには)手当たり次第本を読むしかない」と思ったという。以下、記事から抜粋。

「当時は上京すると、発車時間ぎりぎりまで東京駅前の書店で本を探し、重いカバンを掲げて新幹線に飛び乗っていた。そんな生活が20年近く経過し、海辺の部屋の壁という壁に取りつけた手作りの本棚は、天井から床まで雑多な本で埋め尽くされていたのだ。
 京都大学の理系の3人の博士が、それを見て目を見張ったのを覚えている。
 体の一部のように頼りにしていた本を、6年前の東日本大震災による津波ですべて失ってしまったのである。あらゆる財産を失ったが、愛読書が消えたショックから未だ立ち直れない」

 

 察してあまりある。もしも自分だったら、と思うと、その喪失感が手に取るようにわかるのだ。
 つくづく思う。私がいまのようなライフスタイルで人生を楽しんでいられるのは、一にも二にも本のおかげであると。特別な才能をもたず、学歴も財産も人脈もない人間が知的創造の仕事に就いて、まがりなりにも成果を出し続けているのは、子供の頃から親しんだ本のおかげだ。だから、畠山さんの言う「体の一部のように頼りにしていた本を」という感覚は理解できる。体というより、心身と言ったほうがより近いと思う。
 入手した本の9割は読んでいる。捨ててしまったものもあるが、大半は所蔵している。千駄ヶ谷と宇都宮の自宅、そして市ヶ谷の事務所にある数千冊の本は、まさに私の血肉となった原形質でもあるのだ。
 思い出深い本もたくさんある。小学生の頃に母から買ってもらった世界の古典や娘がまだ小学生の頃、誕生日のお祝いに買ってくれた本がいくつもある。一ヶ月のこづかいが500円だった頃、娘はコツコツとそれを貯め、ある作家の単行本の上下巻を買ってくれた。じつに7ヶ月分の出費だった。扉に書かれているたどたどしい字は、何度見ても微笑ましい。そう、あの頃は誕生日に本をプレゼントするという習慣だった(社会人となった今は、ブランドものに関心が集まっているようだが)。
 ところで、私の本を選ぶ基準だが、ハウツーものをはじめ、すぐに役立ちそうなものにはほとんど触手が動かない。すぐに役に立たないもの、例えば、文学書、思想書、歴史書、芸術書などが圧倒的に多い。特に小説はその根幹を占めている。思想家の執行草舟氏も言うように、私はリベラルアーツの根幹は、時間の経過に摩耗しない小説だと思っている。それらは人間の人間たる所以を探るべく、あらゆるアプローチをしている。だから、そういう良書にたくさん巡り会えば、数百人、数千人もの人生の一部を味わえたことになる。だからといって、現代作家の作品を読まないわけではない。これからずっと読み継がれるであろう作品を発掘していくのは、これまた楽しいものである。
 私の読書スタイルは、基本的に3冊を並行して読むということ。ひとつは世界の古典(現在はジェーン・オースティンの『エマ』)、もうひとつは日本の近代史(現在は福田和也の『昭和天皇』全7巻)、そしてもうひとつは無差別に選んでいる。この3つめが肝で、これは偏らないようにという主旨でさまざまなジャンルから選んでいる。例えば、今なら政治関係の本だ。これからそういう分野の本を書くためである。

 話は戻るが、畠山さんの喪失感はどうやったら埋めることができるのだろう? 橋本五郎さんならわかるかもしれない。
(170316 第707回 写真上は市ヶ谷の事務所にある書庫。中は千駄ヶ谷の自宅にある書庫。下は宇都宮の自宅にある書庫)

ADVERTISING

Recommend

記事一覧へ
Recommend Contents
このページのトップへ