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紺碧の将

創業29周年

2016.04.03

プリント 事業を始めて満29年を迎えた。厳密にいえば、1987年4月上旬に創業し、翌年5月に株式会社に法人化した。

 われながら、よく続いていると思っている。そもそも企業は存続させること自体が難しいうえ、世の中の情勢に影響を受けるので、栄枯盛衰はあたりまえだ。バブル崩壊やリーマンショック、あるいは東日本大震災の時を思い起こしてみてもわかるだろう。
 先日、あるクライアントの方と話をしていた時、「弊社はこれまで営業専任の社員を雇ったことはありません」と言ったら驚かれた。

 私が以前、在籍していた広告会社には営業部と制作部があったが、両者の利害は一致しないことが多いという教訓もあった。営業は少しでもクライアントの要望を聞こうとするし、それはそのまま制作への負担となる場合が多い。
 弊社は基本的に下請けはやらない。最近でこそ、ある条件に限って認めているが、原則は今でも同じ。下請けは仕事の全体が見えないので、いい仕事になりにくい。リスクは少ないが、果実も少ない。なにより、つまらない。
 下請けをしないということは、企業などから〝直接〟仕事を受注する必要があるので、常識的にいえば営業マンが必要だ。なぜ、そういうセクションがなくてもいいかといえば、ずっと継続的に仕事をいただいているからだ。かといって、年間契約などではない。一回きりの仕事をずっと続けている。そういう状態でよく29年も続いたと思う。広告業界、しかも制作をしている業界に少しでも詳しい人であれば、弊社が特異なスタイルだということはわかってもらえると思う。
 事務職も雇ったことがない。事務作業は、各自がめいめいに行っているからだ。打ち合わせから企画・デザイン・協力会社の管理までもめいめいが行う。見積もりも各自が作成する。ひとことで言えば、「個人の裁量権がきわめて大きい」会社なのだ。代表である私がほとんど出社しないのだから、裁量権を大きくしないことには始まらない。
 そういうスタイルを保ちつつ、こうして会社は続いている。おまけに出版事業(フーガブックス)や『Japanist』も続いている(別会社だが)。
 多くの「常識的な人たち」から見れば、じつに不思議な会社だと思うだろう。
 名前の「コンパス・ポイント」は高校生の頃から頭の片隅にあった。もし、自分でなにか事業をやるとしたらそういう名前にしよう、と。
 コンパス・ポイントとはバハマ諸島のナッソーにある音楽スタジオの名で、当時はそこで録音されたというだけで箔がついたほど一部の人たちの間では特別のブランドだった。おそらくスタジオミュージシャンのセンスと技術、そして録音の環境が整っていたのだろう。
 これからいつまでこの会社が存続するかわからないが、なるべく長く続けたいと思っている。いつも広言しているように、私は「100歳まで現役」を目標にしている。今年の1月、スタッフのひとりが「90歳くらいまで働きたい」と言ったが、とてもいい心構えだ。なんといったって、体力はあまり必要とされず、経験を生かせる仕事である。その気になれば、何歳まででもできる。60や65で定年を迎えてしまうのは、あまりに哀しいではないか。
(160403 第627回) 

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