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紺碧の将

御朱印はじつに日本的である

2014.08.10

善光寺御朱印 常念岳から下りた日は安曇野のリゾートホテルで疲れた体を癒し、翌日、善光寺へ行った。

 私は特定の宗教を信仰しているわけではないが、お寺も神社も空気が清浄で、ただその場にいるだけで気持ちが落ち着く。お礼もこめて、参拝した後、御朱印をいただく。
 最近はなぜか御朱印ブームだというが、ブームということはそう遠からず、下火になるということ。もちろん、私はブームにのって御朱印集めをしているわけではない。以前、このブログにも書いたが、京都の龍安寺で御朱印を書いているご婦人の美しい手さばきに感心し、以来、ハマってしまった。だって、あの小さなスペースにひとつの宇宙が現れている。
 今年の6月、高野山に行ったとき、同行したアメリカ人の友人に訊かれた。
「神社でもお寺でも同じ御朱印帳に書いてもらうのですか」
「もちろん、そうだよ」
 彼は怪訝そうな表情をした後、笑った。
 たしかにそうだろう。私は「もちろん、そうだよ」と答えるくらい、そのことに対し、一片の疑念も懐いていなかったが、考えてみれば仏教と神道は別の宗教である。にもかかわらず、同じ御朱印帳に参拝の証を書いてもらうというのは、特に一神教の人にすれば「バカも休み休みしなさい」となるにちがいない。
 しかし、私は日本人の懐の深さをあらためて思い知ることとなった。いいかげんと言えばいいかげん。柔軟と言えば、柔軟。遠く、飛鳥時代に神仏習合をやりとげ、以来、自然な形でさまざまな宗教をミックスしてきたわれわれ日本人は、まさに「いろんなものを受け入れ、日本風にアレンジする」という、とんでもない能力を磨いてきたのだと思う。だから、「日本人は宗教心がない」というのは大ウソで、ほんとうは宗教心の塊だと言ってもいい。
善光寺 ところで、北京オリンピック前の聖火リレーで、善光寺が出発地を辞退したことは記憶に新しい。当時は、というか、今でも中国はウイグル族やチベット族を弾圧し、非道の限りを尽くしているが、それらに世界の国々が反対を唱え、善光寺も苦渋の決断を強いられた。「苦渋の」のと書いたのは、決断がかなり遅かったので、喧々がくがくの議論があったことは容易に想像できるからだ。まあ、そうは言っても、決断しないよりずっとマシ。宗教界は世の悪を正すという使命を忘れてはいけない。
 一方、あれから何年もたつのにウイグル族やチベットへの非人道的な弾圧は続いている。世に正義はないのか。「平和」と唱えれば平和が得られると思っているオメデタイ人たちは、観念の世界に漂流するだけでなく、世界で繰り広げられている惨状に目を向けてほしい。
(140810 第517回 写真上は善光寺の御朱印。下は善光寺本堂)

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