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紺碧の将

争いを呼び込む、極端な平和主義

2014.05.19

来宮神社の大楠 本題に入る前に、ひとこと。
 先日、安倍総理が集団的自衛権行使に関する政府の基本的方向性を示した。産経新聞の見出しは「首相 行使容認へ強い決意」。
 翌日の産経新聞のコラムによれば、他紙の見出しはまったく異なっている。
 東京新聞は「『戦地に国民』への道」、朝日新聞は「近づく 戦争できる国」。ちなみに、韓国の東亜日報は「安倍『戦争ができる国』宣言」、中国の環球時報は「日本を戦争への道へと向かわせている」。言うまでもないが、世界のあらゆる国と同様、韓国も中国も、集団的自衛権を行使する国である。ここで気づくことは、東京、朝日、毎日などの論調は、中韓の代弁者のような役割を果たしているということ。
 そういうメディアの影響か、さっそく国会周辺で反対デモが行われた。プラカードには、「戦争への道 断固反対」などと書かれている。
 そういう光景をどこかで見た覚えがあると思ったら、PKO法案のときだった。
 では、PKO法が制定されて、その後、日本は戦争をしただろうか。あのとき騒いだ人たちは、そのことさえ覚えていないだろう。
 集団的自衛権は、外国の攻撃から自国民を守るための権利であり、すべての国に認められている基本的な権利だ。同盟国であるアメリカと共同で作戦をする機会はじゅうぶんに想定されるわけだから、究極の目的は「日本人を守るため」である。可能な限りスキをつくらないということは、要らぬ争いを未然に防ぐことにもなる。にもかかわらず、彼らは「断固反対」である。日本だけはその権利を持ってはいけないと主張している。
 私は今回の集団的自衛権行使に反対する人たちや護憲派に共通する概念として、「日本国憲法を守るためなら死んでもいい」という極端な思想をみる。もちろん、そのような表現はしていないが、主張していることはそういうことだ。日本人の命に関わる話をしているのに、憲法の理念を侵していないかどうかを延々と論じている。日本人のリスクを減らそうとするのと、憲法を不磨の大典の如く後生大事にするのとどっちが正しい? 答えは子供でもわかるだろう。
 日本人は極端から極端へとブレる習性がある。戦前の軍国主義も極端だったが、戦後の憲法主義も極端だ。憲法は国民の安全な暮らしを担保するための方策でしかないのに、いつの間にか、最上位の価値をもつ概念となってしまっている。明らかに本末転倒だ。本は根っこ、末はこづえ。それがさかさまになっているのだから、国がひっくり返ってしまう可能性は大アリだ。
 あまりにもバカバカしい報道に接しているうち、ほんとうにバカらしくなり、つい、前置きが長くなってしまった。

 

 今回は熱海市にある大楠の話だった。
 来宮神社にある大楠は、本州最大らしい。立て札によると、樹齢2000年以上、幹の周囲23.9メートル、高さ26メートル以上とある。
 当然のことながらご神木とされ、幹の周りにはしめ縄が巻かれている。
 目の前でじっと見ていると、さまざまなことが去来する。この楠は人間の所業をなんと思っているのだろうか。愚かだと思っているにちがいない。
 植物も動物もそうだが、極端な理想主義はありえない。皆、外敵から身を守るための知恵と工夫をこらすことによって、バランスを保っている。人間だけがその例外になれると思ったら、それは傲慢というものだろう。
 たしかに、現日本国憲法は、ケーディスやホイットニーら当時の作成者の理想を反映したものだ。しかし、彼らも「(憲法の寿命は)日本が独立するまでだと思った」と証言しているように、この理想的平和主義が現実の世界にあって有効だとは思っていなかったようだ。今まで紛争にまき込まれなかったのは、「タマタマ」運が良かったからだ。
 いつまでも「タマタマ」を期待する人は、はたして賢い人なのだろうか。
(140519 第505回 写真は来宮神社の大楠)

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