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紺碧の将

心のなかの7つの部屋

2013.04.11

アンナ・カレーニナ 映画『アンナ・カレーニナ』を見た。

 

 子どもの頃、世界文学の迷宮にはまり込んだ私は、「自分が読むべき作品リスト」というものをつくった。中学時代に始まり、20代前半まで更新しながらつくり続けていた。少しずつ「読了」のチェックをつけていくのは、密かな楽しみでもあった。

 結局、そのリストのほとんどは読破したが、いまだに読んでいないものが、覚えている範囲で2つある。残念ながら、そのリストは手元になくなってしまったので、もしかすると他にもあるのかもしれないが。

 その2つとは、プルーストの『失われた時を求めて』とトルストイの『アンナ・カレーニナ』である。

 前者は、あまりにも難解かつ長大なためだ。私が持っている新潮社版の『失われた時を求めて』はハードカバーで全7巻、細かい文字がびっしり2段に組まれ、合計3000ページに及ぶ。これではなかなかふんぎりがつかない。

 後者は、同じトルストイの『戦争と平和』にほとんど感銘を受けなかったので、触手が伸びなかった。

 ということもあって、映画を見た(そして、もうひとつの大きな理由は、『レ・ミゼラブル』の製作陣による映画だということ)。

 

 話の筋はだいたいわかっていた。10代で国家の至宝ともいうべき重要な人物と結婚したアンナは、一気にすべてを手に入れる。生まれながらの美貌、富、名声、そして愛息。

 しかし、それでも満足しないのが人間である。見るからにプレイボーイ風の若い男の魔の手にかかり、破綻の道を進んでいくことになる。

 数年前、インド人の友人が言った。「ブラザー、人間は心のなかに7つの部屋があるよ。7つのうち、6つが満たされていても人間は満足しないよ」と。

 アンナは、10代後半で、すでに6つが充足されたといっていい。しかし、残るひとつの部屋が充足されていない。それは、他の6つの充足と相反するのだが、〝危険な橋を渡って、破綻へ突き進む〟という過激な歓喜と苦悩が充満する部屋である。

 アンナは自制するということを知らない。そういう人が恋愛にはまれば、相手に対する愛よりも自己愛が勝るのは当然のこと。泥沼にはまったアンナはしばしばヒステリーを爆発させ、その都度自己嫌悪に陥り、すさんでいく。その繰り返しのなかで、相手は離れていく、という典型的な展開だった。

 いったい、人間はどこまで愛されれば気が済むのだろう。さらにいえば、事業にしろ何にしろ、どこまで成功すれば満足するのだろう。果てがないのだとこの作品は言っているようにも思える。

 『アンナ・カレーニナ』では、もうひとつの男女の姿を提示している。地道に、そして互いを敬い合って生きる、素朴な二人だ。そういう布石を見て、トルストイは案外、道徳的・教条的だなあと思う。

 不倫をおかしたアンナは、結局、社交界から村八分にされるが、トルストイというより、ロシアの風土そのものなのだろう。バルザックが描く19世紀フランスの社交界なんか、ぞくぞくするほど官能的で頽廃的、さらにオープンだ。なにしろ、結婚は自分たちの身分を安定させるための方策と割り切り、男も女も結婚してからがほんとうの恋愛だとばかり恋愛に血道をあげる。それはそれは凄まじいばかりだ。だから、あれだけの物語が生まれたのだが。

 『アンナ・カレーニナ』は、人間模様そのもの。こうすると人生が破綻するよ、こうすると人に嫌われるよ、という見本のようなものが〝豪華絢爛に〟表現されている。さすが、『レ・ミゼラブル』の製作陣だけあって、演劇風のタッチを随所に織り込んでいる。

(130411 第415回)

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