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紺碧の将

言葉のちから

2012.05.07

 私は、人間の2大発明は言葉とお金だと思っている。

 言葉を生業(なりわい)にしているから言うのではない。もし、人間が言葉を持たなかったら、まったくちがう生き物になっていただろうし、もし、お金という概念がなかったら、今でも人間の大半は狩猟民族のままだったかもしれない。自分の食料を獲得するために、一日の大半を費やしていたのではないかと思う。

 

 堀文子さんという素晴らしい画家がいる。大正7年生まれだから、今年94歳。生きている間は一ミリでも成長し続けたいと己を叱咤し、創作や思索に打ち込んでいる。

 その堀さんの画文集がじつに素晴らしい。『命といふもの』という全3巻のシリーズ。自作に添えられた堀さんの文章に圧倒され続けている。おそらく堀さんは、自分を文筆家と思ってはいないだろうが、あの文章を読むと、自分の文章が恥ずかしくなる。

 視点は融通無碍、射程は長短自在で鋭さはカミソリのよう。正直、本業の絵画の方は群を抜いているわけではない。草花にしても酒井抱一ら先達の到達した境地と比べると物足りなさを感じてしまう(失礼)。現代においても、『Japanist』の初期の号で紹介した院展の重鎮たちの方が勝っていると思う。しかし、絵と文章の組み合わせとなると、堀さんの右に出る人はいないのではないか。

 例えば、長谷川等伯展を見たときの様子がこう書かれている。

 まず、会場に入り、「生命感に溢れる等伯の膨大な作品群に囲まれて、私は強い電流に打たれ、一瞬気を失いそうになった」とある。90歳を超えた人が、絵を見て感動し、失神しそうになるのだ。その、凄まじい感性の純度に驚くほかない。

 さらに、「400年前とは思えぬ新鮮な気迫が作品の中の木や草や岩から立ち上り、会場の空気が袈裟懸けに切りさかれたような迫力に包まれるのを感じた。濃い霧の流れる松山に迷い込んだようになり、松林図屏風の前で私は身動きもできなかった。霧に見え隠れする松の幹も葉も叩きつけるような速さで一気呵成に此の空間は仕上がっている。たっぷり水を含んだ和紙に霧が動く松山。ここは宇宙に続く空間。この凄さは修練や努力でできるものではない。神の手をもつ等伯を見た」と続く。

 私もその等伯展を見たから会場の異様な雰囲気は覚えているが、こんな表現は到底できるものではない。

 堀さんの死生観も素晴らしい。

 「若い頃、観念で想像した底知れぬ死の恐怖がいつしか消え、老いを生きる私の体の中で生と死が穏やかに共存しているのを感じる」

 他にももっともっと素晴らしい文章がある。いや、すべてが素晴らしい。

 

 言葉をもつといえば、全国の地方自治体の首長に、原発の是非を問うたアンケートをし、まとめたサイトがある。http://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/head_quest/todouhuken.html

 その中で、以前『Japanist』で紹介した高橋克法・栃木県高根沢町長のコメントが群を抜いて本質的だ。高橋氏はこう書いている。

 「段階的に原子力を脱し、一方で太陽光をはじめとする自然エネルギー等の代替エネルギーを整備していくことが必要である。

 今、日本は大きな転機にある。文明が変わらなくてはいけないし、文明を基礎づける哲学が変わらなくてはいけない。なぜなら、際限のない欲望が生み出したものが原子力なのだから「欲望」について論じなければ原子力発電所を廃炉にしても本質的な解決にはならないからである。

 人間は自然を征服できるという西洋思想は、「今さえ良ければ、自分さえよければ」という考え方を日本人に蔓延させたが、東日本大震災を経験し、その思想が誤りであることに気づいたはずだ。動物はもちろん、植物も鉱物も、路傍の石ころにさえ魂が宿るという考え方や、『草木国土悉皆成仏』の思想は、日本人が昔からもっていたものである。今こそ我々は「西洋思想」という衣を脱ぎ、美しい日本本来の衣を着て、堂々と誇りを持って歩んでいくべきではないだろうか」

 国政において、原発の問題をこのような視点で述べられる政治家が現れない限り、いつまでも幼稚な原発是非論が続くのだろう。

 

 言葉は智と情の総体を表している。もっと言葉を磨かなければならない、つまり森羅万象を見る目を養わなければならないと思うこの頃である。

追記:どうしてスポーツ選手は、インタビューされると、「〜ので」を多用するのだろう?

(120507 第338回 写真は堀文子 画文集『命といふもの 名もなきものの力』)

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