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紺碧の将

なぜ、長州

2011.09.20

 昨年の今頃、山口県防府市の松浦市長に取材する機会があり、防府を訪れた際、毛利氏庭園に足を運んだ。

 毛利氏といえば、戦国大名である。毛利元就の「三本の矢」の話は、子どもの頃読み、なるほどなあと思った。毛利輝元は豊臣配下の五大老のひとりだが、関ヶ原で西軍の大将に担がれて大幅に減封され、辛酸をなめた。とはいっても、大大名である。並みの大名とは格がちがう。

 その毛利氏が作った庭園が防府市にあるのだが、やはりスケールが大きい。

 

 では、今回は毛利氏をテーマにするのかと思いきや、そうではない(少しは関係あるかも)。長州(山口県)出身の総理大臣がなぜ多いのか?

 初代・伊藤博文にはじまり、山縣有朋、桂太郎、田中義一、岸信介、安部晋三、菅直人で7人。近い将来の山田宏氏を入れれば8人である。ちなみに、長州力は総理大臣になっていない。

 それでは、なぜ、長州はそれほど多くの総理大臣を生み出したのだろう。

 長州ときけば、「尊皇攘夷」とくるが、幕末までの長州は必ずしも尊王攘夷派が多かったわけではない。むしろ、藩の中枢は幕府に帰順する傾向が強かった。

 その流れが一気に変わったのは、吉田松陰の出現に負うところ大である。なにしろ、松陰が門下生たちに「大義に生きること」と「私心を捨てること」を教えた。自らも行動に写し、大いに煽った。その結果、高杉も山縣も鉄砲玉のようになった。一方で、冷静沈着な人物も長州には多い。次号の『Japanist』の歴史偉人列伝は児玉源太郎を取り上げるが、この人も長州出身である。

 

 ところで、現在、県庁所在地でもっとも人口の少ない都市は山口市らしい。地理的なハンディも災いしてか、戦後の山口県は幕末〜明治期のようなきらめきはない。実際、山口県を訪れても、総理を数多く輩出している特別の雰囲気をつかむことはできない。

 しかし、人材は明らかに輩出しているのだから、なんらかの見えない力が働いているのだろう。そういえば、ユニクロの柳井さんも宇部だった。文学者も多い。髙樹のぶ子や伊集院静も防府だった。伊集院静のエッセイを読んでいたら、生家の近くに山頭火の生家があると書いてあった。

 長州……、得体の知れない土地である。

(110920 第282回 写真は毛利氏庭園)

 

 

 

 

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