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紺碧の将

みんなどこへ行ったの

2019.10.04

夏の終りのむんむんする暑さと、急に降りだす雨が交互にやってきた翌日は、庭の草たちが一気に伸びる。

「どうしてあなたたちはこんなに元気なの」私の気分はブルーである。

手に負えないから息子にも雑草取りを頼むのだが、彼にとってはどの草を取っていいものやら判別に苦しむらしい。

これは雑草だから取り除くべし。私の頭の中には歴然とその割り振りが決められているのだが、確かに迷うものもあるなぁ。

 

いつだったか伸びた木の剪定を頼んだ時、ついでに周囲を摘み取ってくれたのはいいが、伸びてきたばかりのアカンサスもすっきりと無くなっていた。

私にとっては大切なアカンサス、決して雑草なんかではないのよと、恨み節を心に収め、人の感じ方は様々であることも痛感した。

花壇と芝生の境界線を刈り込み、花々の間にまん延している草ぐさを取り除くと庭全体がきりっとして見えてくる。

私の気分も爽快、雑草取りもこの気分を味わいたいがための労苦であるには違いないのだけれど、どこかふに落ちないわだかまりのようなものも胸の奥に沈殿している。

無造作に刈り取られた草の山はいつかは土に還るのだが、いとも簡単に割り振っている私、いえ人間の性というか「好きなものは大切、愛してあげたい、繁栄……」

この構造が私の小さな世界でもはっきりしている。

 

最近虫たちの姿もめっきり少なくなった。紅かなめにうようよしていた毛虫たち、朝日を受けてキラキラ輝いて見えた大きな蜘蛛の巣、桜の若木の葉を数日で食べつくした青虫たち……。

みんなみんな何処へ行ったのだろう。時々痩せた小さなヤモリが人の気配に驚いたようにヒョロッと身を隠す程度である。

嫌いなものは殺虫剤で退治する。これは私たちお決まりの行動。ここ10年で私の小さな庭も虫の棲まない、いいえ棲めないか弱く奇麗な庭になり果てた。

「なんで争いごとが絶えないのでしょう」「あんな残酷なことよくできるわね」人はしたり顔で不思議そうに言う。

私は自分の怖さ身勝手さを承知している。それを如何にごまかしカモフラージュするかに人生をかけている節さえある。

こんなことを言えば身も蓋もないが、私のビーズワークの作業は身を隠す隠れ蓑だと思っている。

 

前回書いたエッセイ『三四郎』の中で記した旧約聖書詩篇51の一節は、美禰子の想いを「……わが咎は常に我が前にあり」に託して語られたものであるが、実際の聖書の中身はもっと深く重い。

「詩篇」は旧約聖書のほぼ中盤に位置していて全編が祈りの詩である。驚いたことに全150編の内相当数がかの「ダビデ」であり、彼の言葉や祈りが最も重要な役割を果たしていることがわかる。

聖書にでてくるダビデは正に英雄であり、私たちは彼の人生を物語として、あるいは美しいダビデ像として知っている。

特に私が詩篇51に感銘を受けるのは、その輝かしい生涯を全うしたかのように見えるダビデの、神へ向けての心からの悔い改めの祈りの言葉である。

確かに彼は数々の偉業を成し遂げたが、目に余る悪事も行っている。モセの十戒に当てはめればいくつ神にそむいているだろう。

彼の祈りのすごいところは、私たち人間、仲間に謝るのではなく、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事とみられることをしました」と神に懺悔している。

「わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」悔い改めても改めても罪が前から消えないのが私たち人間であると痛感させられる。

だからこそダビデの祈りは私の大きな慰めになっている。

 

 

薔薇

 

薔薇

写真/大橋健志

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