死ぬまでに読むべき300冊の本
HOME > Chinoma > 死ぬまでに読むべき300冊の本 > バランス感覚とは? 中庸とは? その答えがここにある

ADVERTISING

紺碧の将

バランス感覚とは? 中庸とは? その答えがここにある

file.029『「リベラル保守」宣言』中島岳志 新潮文庫

 

 著者の中島岳志は、1975年生まれというから、まだ44歳。NHKの「100分 de 名著」、オルテガの『大衆の反逆』で初めて知った。

 4回にわたる番組の解説を聞きながら、その卓越したバランス感覚に驚いた。西部邁の弟子筋だけあって基本的には保守の立ち位置だが、その平衡感覚はみごとという以外にない。

 私は左翼思想にはまったく与しないが、かといって保守の論陣にも違和感を感じることがある。バランスを失い、国粋主義に発展する兆しを感じてしまうことが多々あるのだ。

 そもそも保守とは、平衡をいう。それを学ぶことができたのも、オルテガ―西部邁―中島岳志という保守本流を紐解いた書物によってである。

 左翼思想は、人間の理性によって理想社会を構想し、その計画にのっとって実行するという考え。わかりやすい例が、旧ソ連や毛沢東が行った計画経済だ。理知的な計画にのっとって生産すれば、結果平等の社会をつくることができると信じた。

 しかし、共産主義は崩壊した。当然といえば当然だろう。やってもやらなくても結果が同じなら、人は努力しない。それを無理やり監視しようとしても、役人は自分の役割を果たしたと虚偽の報告をするようになる。人間は理知的でも進歩的でもない。それがわからなかった左翼思想家は、福田恆存が言うところの「万能な絶対者になることができると宣言する不遜な者であり、人間の不完全性や限界をわきまえない愚か者」そのものだ。

 いっぽう、真の保守思想について、中島氏はこう述べている。

 ――保守は単なる復古でも反動でもありません。保守思想家は人間の不完全性を直視し、その能力の限界を謙虚に受け止めます。

 ――賢者は、理性がパーフェクトな存在ではないということを把握し、知性には一定の限界があることを知的に認識します。真に理知的な人間は、理性的に思考すればするほど、その思想には決定的な限界があることを理知的に掌握します。知性ある人間は、理性の乱用から距離をとり、傲慢を遠ざけようとします。保守思想が疑っているのは理性そのものではなく、理性の無謬性なのです。保守は「理性に基づく進歩」ではなく「過去へと遡行する前進」を志向します。

 

 この場合の「賢者」とは、真の保守思想家を指すのは明白だ。つまり、オルテガや西部邁が言っているように、過去に生きた人たちの叡智を活用しながら、同じ時代に生きる人たちと議論を交わし、人間の不完全性を埋めるべく、模索し続けることが真の保守思想家といえる。意見や価値観が異なるからといって相手を糾弾し、対話を拒否することは保守思想の人がやるべきことではない。

 本書では、自由の意味についても言及している。

 日常、われわれは自由の尊さを口にし、それを死守せんとしている。わずかでも自由を阻害されれば、凄まじいほどの剣幕で相手を罵る。社会の至るところで跋扈するクレーマーの存在は、そのようなものにちがいない。

 しかし、エドマンド・バークの言葉を援用しながら、自由の定義を述べている。つまり、自由とは人間らしい、道徳的な、規律ある自由であると。

 ――自由は道徳や倫理、良識という「自然の節度」の枠組みの中で享受されるものであって、先人たちの経験の積み重ねの上に獲得された歴史的成果なのです。適切で安定的な秩序がないところに、自由は存在しません。無秩序こそが、自由を阻害する最大の要因です。

 

 自由を履き違えた人が多数となった社会は、自らの首を絞めているようなものだ。なぜなら、制約のない自由は、必ず他者の自由と衝突する。自分本位の自由は肥大化し、自分の自由を妨げる人に対しての攻撃となって現れる。

 そういう意味で、「基本的人権の尊重」を謳った現憲法は、言葉足らずである。基本的とは、生まれながらに有しているという意味だが、生まれながらに有している制約もあるということが忘れられている。知性のあるアメリカ人がつくった憲法とは思えない。野放しの自由を謳ったことは策略のひとつかもしれないと考えるのは穿った見方なのだろうか。キリスト教のような「制約」を持たない日本人は、なんらかの「制約」を〝発明〟することなく、真の自由を享受することはできないのではないか。そんなことも深く考えさせられた。戦前まで、道徳や「教育勅語」がその役割を果たしていたが、戦後は否定されてしまった。

 最後に、本書で私がもっとも感銘を受けた文章を紹介しよう。

 ――宗教や文化の差異は、真理の差異ではありません。それはあくまでも真理に至る道の多様性であって、言語化できない究極の真理は常に一つです。真性のリベラルは、真理の唯一性とともに、真理に至る道の複数性を認めます。私はこのようなアプローチを「多一論」と呼んできました。インドで生まれた不二一元論、中国の老荘思想、仏教における「一即多、多即一」、そして西田幾多郎が説いた「多と一の絶対矛盾的自己同一性」。これらの思想は、相対レベルにおける価値の多様性と差異を認めつつ、絶対レベルにおける真理の同一性を共有するという認識構造を持っています。

 

 バランス感覚とは? 中庸とは?

 その答えが、上の言葉であろう。

ADVERTISING

Recommend

記事一覧へ
Recommend Contents
このページのトップへ