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Weekly Interview

人の数だけ物語があります。本欄では、月3回、インタビュー形式でさまざまな物語を紹介します。

Interview Blog Vol.35

執筆を軸に、人生を楽しみながら、いろいろなことに挑戦していきたい。

doppo関口暁子さん

2018.02.11

『Japanist』の取材記事や書籍の執筆など、フリーの文筆家・エッセイストとして活躍する関口暁子さん。ドイツでの体験から日本での職業遍歴、そして文章のことなど、多岐にわたって語っていただきました。

ドイツで学んだこと

大学在学中にドイツへ留学したということですが、なぜドイツだったのですか。

 海外赴任している親戚もたくさんいましたし、留学経験者も多かったので、小さい頃から、海外への憧れがありました。留学先をドイツに選んだ理由は大きく3つあります。

 一つは、海外を飛び回っていたエンジニアの父が「ドイツはいい」とふだんから話していたことです。父の姿は、「かっこいいビジネスマン」そのもので、ずっと憧れを抱いていました。そのイメージがドイツと深く結びついていたのです。

 二つ目は、幼なじみであり親友である女の子が、ドイツ系スイス人であったということです。お人形のように可愛くて、なんでも彼女の真似をしていました。今から40年近く前、身近に「海外」があったんです。

 そして三つ目は、中学生の教科書で「日本人とドイツ人は似ている」という文章に出会ったことです。以来、どこがどう似ているんだろうと漠然と思っていました。

ドイツ留学ではどのようなことを学んだのですか。

 恥ずかしながら、留学というより“遊学”です。ただ、キャンパスがあった場所が、旧東ベルリンだったことは、貴重な経験となりました。私が遊学した1993年春、まだ東ドイツの面影があり、寒々とした光景でした。同じベルリン市内でも、西ベルリンの中心部に行くまで、2時間もかかるんです。学生寮の近くの町では、東洋人と言ったら、「やみタバコを売っている違法滞在者」のイメージが強く、男子学生は、石を投げられたり、タクシーの乗車拒否をされたこともあったそうです。それでも、仲良くなれば気さくな人たちも多くて、18歳という多感な時期に、過渡期のドイツを体感できたことは、人生の宝です。

 ベルリンキャンパスの先生は、東西ドイツの話をよくしてくれました。「当事者」たちの声は本当に生々しく、平和な日本の豊かさを思い知ると同時に、自分自身が日本について何も知らないということも痛切に感じました。先生だけではありません。大学交流で、ベルリンにある大学の学生たちと対話をしたときに、彼らは自分の国をよく勉強していました。ドイツに留学しているほかの国の学生も、それぞれに自国を愛しているということを、堂々と話すのです。

 衝撃でしたね。日本では、日本が好きなんていうと、すぐに「右」と言われてしまう時代でしたから。世界では、自分の国について熱く語るということは当たり前だということを、身をもって感じました。

帰国後、どういう仕事に就いたのですか。

 ドイツから帰って大学の2年次に復学しましたが、卒業後の仕事はなかなかイメージできずにいました。文学系にも興味があるし、国際的な仕事をするという夢もありました。

 就職活動を始めてまもなく、ある出版社から内定をもらったのですが、あまり気乗りせず、ほかにいいところはないかと就職雑誌を買っては眺めていました。すると、ある航空会社の子会社が、追加募集をかけるという広告が目に入りました。当時「航空会社3強」と言われた時代。そのなかで一番小さい会社で、国内線がメインの会社でしたが、「航空会社出身」という経歴は将来役に立つかもしれないと思い、採用試験に臨み、運よく採用されました。

社会人としての船出はどんなふうでしたか。

 会社では優秀で優しい上司や先輩に恵まれました。しかし、私の心にはまだ、「ドイツで仕事をする」という夢がありました。ドイツ遊学に多額の費用がかかったということは知っていましたから、一度はドイツで仕事をするということが親への恩返しだとも思っていました。ですから、貴重な社会人経験をさせていただいていたにもかかわらず、せっせとドイツや国内企業のドイツ勤務採用などの情報を探っては、履歴書を送っていました。

 日本人が経営するワインの会社からメールが来たのは、入社して3ヶ月のことでした。ドイツ人の秘書が家族の転勤により退職してしまうので、新しい秘書を募集しているという広告を英字新聞で見つけて、履歴書を送っていたのです。

 何回かオーナーと面接をして、内定をもらったのは夏前でした。直属の上司に辞表を携えて、面談をお願いしました。上司は、みんなが怖がるようなビシッとした人でした。でも、私は明快な持論のあるその上司を尊敬していました。その上司が、私にこう言ったのです。

「君は、それなりに名が知れた会社に入社したが、まだ卵に過ぎない。今辞めたら君の経歴にも傷がついてしまうし、この会社で学べることがなにひとつ身につかないのだから、せめて1年はいた方がいい。ドイツの会社がどうしても君を欲しくて採用するのだったら、待ってくれるかもしれない。一度先方と話し合ったらどうか。それまでの間、君には大企業ならではの経験をさせてあげよう」

 辞めると言っている新人の部下に、キャリア形成のことまで考えてくれてアドバイスをくれました。上司の勧めどおりに、ドイツの会社の社長に相談すると、「来春まで待つ」と快諾をいただきました。双方の上司に、これだけ親身になっていただいて、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

日本の会社と比べ、ドイツでの仕事はどうでしたか。

 ドイツへは、社長秘書という名目で飛んだわけですが、ドイツ人秘書の後任を務められるほどのドイツ語力はありませんでした。先輩についてワインの販売を手伝ったり、事務を教えてもらったり。オーナーが日本にいる間は、私の仕事はトイレ掃除でした(笑)。私が最初に赴任した本社は、数百年前の地下セラーを改築して作られた、オフィス兼セラーで、ずっと地下室で仕事をしていました。夏以外は、コートを着て仕事をしていました。

 まわりには川とぶどう畑、小さな横丁にお土産屋さんやレストランなどがあるだけ。ドイツの朝は暗くて、寒い。1ヶ月も経つと、先輩のパワハラと、田舎という環境に耐えられなくなって、日本の元上司に電話をかけては泣き言を言っていました。はじめての給料は国際電話代より少なくて、翌月の給料を前借りして電話代を払ったというエピソードもあります。

 転機が訪れたのは、赴任して2ヶ月ほど経った頃です。会社が、ハイデルベルクにある物販店を買収したのです。社長からの打診を受け入れ、一人で転勤することになりました。

 最初は社長もたびたび来てくれましたが、まったくの「アウェー」状態。元の社員は若い私に反発してほとんど辞めてしまったので、近所の大学に求人のビラを貼らせてもらい、いろいろな国の学生にアルバイトに来てもらいました。社員と言えば私とあと2人くらいでしたから、いつも走り回っていましたね。仕入れの改善、店舗のディスプレイやメンテナンス、スタッフや営業マンへの指導、労務管理など、思い当たる改善策を片っぱしから試してみて、気がつけば半年で単独黒字を達成していました。さらに1年経つと、累積赤字も解消され、翌年、地元の経済紙から取材を受けました。

その会社には何年勤めたのですか。

 約3年です。表向きの理由は、ビザの更新をしないで帰ってくるという、親との約束ですが、私の思いは別のところにありました。その会社ではたまたま成果をあげることができましたが、もしかしたら、日本では自分は仕事ができない人かもしれないと不安に思うようになりました。なにしろ日本では1年しか働いたことがないのですから。自分を叩き直せる気力があるうちに、日本に帰ろうと思ったのです。

日本に帰って感じたこと

帰国してみて、どうでしたか。

 横浜駅近くにあるディスプレイグッズとアーティフィシャルフラワーの製造販売をしているメーカーの総合企画室というセクションに採用になりました。この会社でも、同僚、上司や役員から可愛がってもらいましたが、取引先に行くと、想像以上に女性差別、年齢差別を受けました。日本はこんなに遅れているんだと悲しくなったこともたくさんあります。女性だからと名刺をもらえなかったり、若いからリーダーは別の人だろうと決めつけられたり、大役を任されると、決まって「“女”を使ったのだろう」と噂されました。仕事は楽しかったのですが、社外で受ける扱いにはいつも苛立ちを覚えていました。ドイツでフラットな関係の心地よさを知ってしまったので、日本でしか働いていない女性が持つ、ある種のあきらめができなかったのです。

そういう状況ではドイツに帰りたくなったでしょう。

 いいえ。今帰ったら、日本の古い慣習に負けたという気持ちがあって、それだけは絶対にしたくありませんでした。古い商習慣がすべて悪いわけではありませんが、多くの女性が差別を受けたり、正当に能力を評価してもらっていないという現実があります。正当に評価されるためには、数字で示すしかない、とさらに仕事に打ち込むようになりました。

 そんなとき、会社の社外顧問から「会わせたい外食業界の女性経営者がいる」と声がかかったのです。何回かお目にかかっているうち、社員にならないかと言われました。勤めていた会社はとても居心地がよかったのですが、新しいことが目の前にあると、チャレンジしたくなってしまう性分です。社長に頭を下げて、退職させてもらいました。

外食業界とは、これまたまったくの異分野ですね。

 マーケティングプランナーとして入社して3ヶ月たった頃でしょうか。飲食業も、製造業も、物販店も、日本でもドイツでも、会社運営においては、共通する「大切なこと」があるんじゃないかとふと思い立ちました。ドイツで店を改革する際に、社員たちの心を一つにすることに、とても心を砕きました。性別や年齢はもちろんですが、国籍も宗教もバラバラというメンバーで店を再建しなければなりませんでしたから、「心」がとても大切なのです。日本人は「言わなくてもわかる」という風潮がありますが、本当は家族だって、言わなければわかり合えなかったり、誤解が生じることがあります。他人の集まりの会社はなおのことです。

 社長に、会社のフィロソフィーを明文化して、社員と共有すべきではないかと訴えました。出過ぎたことであるのは承知していましたが、降格覚悟で直談判しました。すると、その社長は、怒るどころかとても喜んでくれました。「今までそんなことを言ってくれた社員はいない。一緒に考えてくれない?」と。そこで、私が草案を書き、社長にチェックをしてもらって、企業理念を書き上げました。そのような流れの中で、ある日社長に呼び出され、取締役になってほしいと言われました。27歳のときでした。

27歳で取締役とは、大抜擢ですね。

 とても貴重な経験をさせていただきました。ただ、この会社でもいろいろな矛盾を感じるようになってしまいました。当初、マーケティングプランナーとして入社しましたが、経営企画室へ移り、自分の守備範囲が広がりました。自分で仕事を作ってしまっているわけなのですが、改善したいところがどんどん出てくるのです。たとえば、就業規則、福利厚生、給与設定、人事考課のしくみ。オーナー企業なので、変えやすいと思っていましたが、逆に言えばオーナーが首を縦に振らなければ、駄目なものは駄目。社長から「あなたの青臭い正義感では、飲食業はやっていけない」とぴしゃりと言われました。

 悶々としていた頃に、ヨーロッパに住んでいる外国人の友人が日本に遊びに来て、「暁子、それで楽しいの?」「誰の人生を生きているの?」と問いかけられたのです。自分の身の振り方を真剣に考えましたね。

そこで独立されたのですね。

 はい。「doppo」という看板を掲げました。「独立独歩」の独歩ですが、仏教書『碧巌録』に出てくる「独歩青天」からも由来しています。優劣や好き嫌いなどの争いや比較という価値観を超越した世界で悠然と生きるというような意味合いがあります。昔の取引先が企画書作成の依頼など「ご祝儀仕事」をくれたりして、それなりに充実した日々が続きました。そして、現在に至る……という感じです。気がつけば、独立して11年目に入りました。

 その間、地域再生システム論という講座を開いている国立の大学院で伝統工芸士の方を対象にマーケティングを教えたり、その経験を私立大学の学部生に、事例紹介という形で講座を受け持ったりしました。また、伝統工芸を世界に伝えたいという思いも強くあり、九谷焼商社がフランスの展示会に出展する際のテーブルコーディネートやブースのプロデュースなどのお手伝いをするなど、貴重な経験もしました。次男の妊娠と出産でお休みしていた大学の非常勤講師の仕事も、ふたたびお声がかかり、今年夏ごろから、復帰する予定です。

文章を書くようになって、世界が開けた

文章を書くようになったのは、どのような経緯からですか。

 27歳の頃、御社の代表である髙久さんと仕事の取引でお会いしたのが直接的なきっかけです。何度かお話をするうち、文章を指導してもらうことになったのです。ドキドキしながらも、「自分ならできる」という自信もあったのですが、それも早々に打ち砕かれました。最初に提出した文章は「推敲不可能」と突っ返されたくらいですから。

 不思議なことに、悔しいという気持ちはありませんでした。むしろ、できないんだったら、できるようにしたい。書けないんだったら書けるようになりたいという思いを強く抱きました。第2次ベビーブームで競争の時代に生まれ、中学生の頃にバブルがはじけて華やかな時代を謳歌した経験もなく、大学を卒業する頃には戦後初めての就職氷河期という世代なので、打たれ強いのかもしれません(笑)。

好きで書く文章とプロとして書く文章はまったくちがうと思います。文章修業はいろいろな苦労があったと思います。

 たしかにそうですね。髙久さんという師匠がいてくださったおかげで、初めて自分の文章を客観的に見つめる機会を得ました。それまでは、自分の知っていることや気に入った表現などを自己満足的に書き連ねていただけだということもわかりました。

 課題文章を夜までに髙久さんにメールしておくと、翌朝、手書きで赤入れをしたものがファックスで戻ってきました。そのときの「ピー」という音が聞こえると、心臓が飛び出そうなくらい緊張しました。学生時代、6年間陸上競技をしていたのですが、スタートラインについて、全員の準備が整うと、「ピ、ピー」と笛が鳴るんです。あのファックス音は、その時を思い起こさせました。清々しい緊張感。陸上が勝負であるように、いい文章が書けるかどうかも、勝負の世界のようなものです。紡ぎだした文章そのものが評価の対象です。タイムがすべてである陸上競技とよく似ています。「女性だから」という評価を嫌悪してきた私にとっては、向いている世界なのかもしれません。

 そのうち、髙久さんが主宰している『fooga』という雑誌でエッセイを連載させていただくことになり、その頃から文章力がアップしたという実感があります。

弊社で出版した『幸せの隠し味』はその頃のエッセイをまとめたものですね。

 そうです。エッセイストとしてのペンネームは、あかつきゆうこです。

暁子さんの「あかつき」と、その言葉に対する「夕」ですね。

 はい(笑)。出どころがすぐにわかってしまいますね。『doppo』の由来である「独歩青天」の生き方(と私が思っている)「悠」にも通じています。「悠」の字は大好きで、長男にもこの漢字を当てました。

いい文章が書けなくて悩むこともあるでしょうね。

 そうですね。他にいい表現方法はないかと頭を抱えることもあります。自分の知識や感性、表現力のなさに不甲斐ない気持ちになることもあります。

 けれども、つらいとか、大変という思いを抱いたことはありません。心底、好きなんでしょうね。「産みの苦しみ」という言葉もありますが、まだ私のレベルではそこにいたっていないのかもしれません。

 『Japanist』の取材で、日本画の手塚雄二先生の16ページの記事を担当したことがあります。それ以前に手塚先生の個展を観に行って、その思いを綴った文章がありました。これも“髙久師匠”に提出した課題の一つだったのです。その文章を持って、取材前の打ち合わせに、手塚先生のアトリエを訪れました。「昔、こんな文章を書きました。私は先生の絵がこれだけ好きなんです」という感じで。打ち合わせ中に奥様がその文章をお読みになって、お茶を出してくださるときに、とても喜んでくださったのです。「あなた、まずこれ読んでみて。とてもいいわよ」と。

 手塚先生は、打ち合わせの途中で短いその文章を読んでくださいました。そして「僕の絵を見て、こういう文章を書いてくれるあなたなら信用できる。好きに書いてください。絵も、あなたが全部選んでいいよ」。

 仕上がった原稿に修正が一つも入らなかったのは、後に先にもその時だけです。

 私の文章を読んでくれた方から過分な言葉をいただくことがあります。自分の描いた文章が、誰かの心に何かを残す。そのような場面に出会えることが、一番の幸せです。自分の耳に届かなくてもいいんです。どこかで誰かが、「いい文章と出会った」と思えてもらえれば、文章家としてこれ以上の幸せはないと思います。

文章で心がけていることは?

 取材のときは、念のため録音しています。でも、実際にそれを聞くことはほとんどありません。お話をうかがったときの自分の感覚、そのときの温度感。相手の方の息遣い。そういうものを大切にしたいからです。

 あえて心がけているとすれば、「難しい言葉をなるべく使わない」ことです。四字熟語に逃げないで文章で表現するという気持ちで書いています。知識のひけらかしや、自己満足に終わる文章にはしたくないと思っています。「世の中には、何が言いたいかではなく、何を知っているかだけを伝えたいという本がたくさんある」という言葉をゲーテも残していますが、この言葉を肝に銘じています。すらすらと読める。でも、心に何かを残す。それが理想の文章です。

現在、どんなライフスタイルをお持ちで、これからどんなことがしたいですか。

 長男が今年の春に小学生。次男が2歳です。次男は待機児童で、週に2回しか保育園に預けられませんので、仕事ができる時間はおろか、本を読む時間もなかなか取れないのが現状です。限られた時間の中ですが、頭の中はいつもやりたいことだらけです。

「東京ウーマン」という働く女性のためのポータルサイトで月に1回コラムを連載して、今年で5年目になります。大きなテーマは「言葉のチカラ」。ゲーテやヘッセなど偉人たちの言葉を、評論家や研究家の難しい解釈ではなく、自分自身の心で感じた易しい言葉で紹介してみたいと始めた連載です。これを、より多くの人に読んでいただくために、いつか一冊の本にしたいと思っています。

また去年、新宿の水たき専門の料亭「玄海」さんから、創業家三代の物語を本にしたい、と執筆依頼がありました。すでにほとんどでき上がっていて、間もなく刊行予定です。原稿用紙で350枚以上の文章を書いたことはありませんでしたが、この仕事はとても楽しかったですね。若き社長さんが、懸命に業務改革に取り組んできた姿は、自分も乗り越えようとして越えられなかった「業界の壁」にチャレンジした時の思いと重なり、吐き出すように言葉が出てきました。機会があれば、このようなノンフィクションの世界にもどんどんチャレンジしていきたいと思っています。

私は家を整えることが大好き。きれいに整い、好みのインテリアで統一された家を眺めていると、それだけで癒されます。去年は整理収納アドバイザー1級、ホームステージャー1級、ルームスタイリスト1級と、資格を取得しました。さらにブラッシュアップして、インテリアの世界にも仕事として足を踏み入れてみたいという思いもあります。

仕事だけではなく、語学や乗馬、和の文化などの習い事も時間を見つけてやってみたいです。

すごいパワーですね。これからもますますご活躍ください。

 はい、ありがとうございます。

(写真上から ①スイス人の友人と ②ハイデルベルク時代 ③レストラン時代、音羽和紀シェフと ④取材後、渡部昇一氏と ⑤取材後、山本優美子氏と ⑥「GINGER」誌に掲載された記事)

 

関口暁子公式ホームページ
https://akikosekiguchi-official.amebaownd.com/

東京ウーマン 連載コラム「言葉のチカラ」
https://www.tokyo-woman.net/Column_b20015.html

 

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