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Interview Blog Vol.29

開発途上国に育てられたので、人生を楽しむだけでなく、現地で社会貢献にも取り組みたい。

北川龍之介さん

2017.12.11

大手家電メーカーのデザイナーでありながら、休職して青年海外協力隊に参加。復職後、海外拠点の立ち上げなどを担当した北川龍之介さん。29年間の海外生活も含め、人生体験について語っていただきました。

海外に雄飛し、29年間で培った「世の中の見方」とは。

北川さんの経歴を拝見すると、キーワードは「工業デザイン」と「海外」ですね。

 シャープに就職し、希望通りデザイン部門に配属されましたが、最初は先輩デザイナーのデザインした試作モデルの塗装ばかりしていました。

 やがて、新しい商品企画に合わせ、アイデアスケッチのコンペに参加するようになりました。私のデザインスケッチはまったく採用されませんでしたが、3年くらい経過して、少しずつ採用されるようになりました。その時の嬉しさは今でも忘れられません。最初に商品化された石油ストーブは、発売と同時にわざわざ電器店の店頭に並んでいるのを見に行きました。

 それから、新しい生活提案型のニューライフ商品のデザイン開発に関わったり、ジャー炊飯器やコーヒーメーカー、オーブントースターなどのデザインを担当して、Gマークもいくつか取得し、デザイナーとしての自覚や自信が出てきました。

そのあと、青年海外協力隊に参加していますね。どのような経緯からですか。

 海外の友人との出会いがきっかけでした。飲み屋で知り合ったドイツ人の留学生からホームパーティに招待され、カルチャーショックを受けたのです。パーティーの参加者は日本人と外国人が半々くらいでしたが、グラスを片手にいろんな国の言葉で盛り上がっているわけです。ドイツ語はもちろんイタリア語やアラビア語……。各国からの留学生とその友人の日本人が集まっていたので当然かもしれませんが、その時の共通言語が英語でした。私はと言えば、ほんの片言のブロークンイングリッシュしか話せず、片隅で笑っているだけでした。日本にいながら強烈に外国を感じた瞬間でしたし、今まで自分の知らなかった世界を見たことで海外への憧れ、興味は日増しに強くなっていきました。

 その一方で、ずっとシャープのデザイナーとしてやっていくべきかを真剣に考え始めた時期でもありました。大量消費社会に対する疑問もありました。売れようが売れまいが年に一度、必要性を感じないモデルチェンジをする。機能はほとんど変わらなくてもデザインを一新し、新製品として市場に商品を出さないと競合他社に勝てないという現実に矛盾を感じていたのです。

 そんな時に出会ったのが、ビクター・パパネックの著書『生きのびるためのデザイン』でした。彼は工業デザイナーは人類にとって危険な人種になったと述べています。生きていく上で必要もない製品に人目をひく刺激的なデザインを施して、工場で大量生産させ、資源を浪費し、空気を汚染し、ゴミを作り大地を汚していると。私が疑問に感じていた工業デザインに対するすべての回答が彼の著書の中にありました。

「デザイナーのアイデアと知恵を人類にとって意味のあるものにするためには、地球環境に配慮しながら、今まで忘れていた開発途上国や身体障害者などのユーザーに向けて、彼らが生きのびるために必要としているもののデザインをしなければならない」とも語っています。

 若かった私は単に彼の思想に共感しただけにとどまらず、完全にかぶれてしまい、自分も開発途上国や身体障害者のためのデザインをしたいという気持ちが膨らみ、どうすれば実現できるかを考え始めていました。

 そんなある日、酔った帰りに地下鉄で車内吊り広告を何気なく眺めていると、青年海外協力隊の説明会の広告に目が止まりました。ふだんならすぐに忘れてしまうであろう説明会の場所と日時をその時だけはしっかり記憶しており、約2週間後、仕事の帰りに軽い気持ちで立ち寄りました。事務的な説明会だったら何も感じなかったかもしれませんが、開発途上国から帰国したばかりの元協力隊員たちの話にはリアリティと説得力があり、心が大きく揺さぶられました。

 そこで応募職種から「デザイン」という業種を探しましたが、開発途上国で真っ先に求められるは一次産業の農業や漁業の指導です。次にインフラ整備の土木や建築関連、そして教育です。その教育の中に「美術講師」というのがあり、唯一私がやれそうな職種だったのでダメもとで応募することに決めました。当時、私はアフリカに憧れていて、協力隊に行けばアフリカに行けるかもしれないと淡い期待を抱いていましたが、募集があったのは中米のホンジュラスという今まで聞いたこともない国でした。

 一次試験が通ると、東京の広尾の協力隊事務所で最終試験と面接がありました。面接官から「あなたは現在企業の工業デザイナーですが、開発途上国であなたのスキルや技術をどのように生かそうと考えていますか」という質問に対して、私はフィリップスの有名なデザイナーの言葉を引用すると断って「大きな川があれば、そこにかける橋の形をデザインするのではなく、その川の渡り方を考えるのが工業デザイナーです。ですから開発途上国で私のやれることはたくさんあると思います!」と答えたのです。今振り返っても、この答えにはかなりの説得力がありましたね(笑)。

 数日後、電報で合格通知が来ました。合格したら会社を辞めて参加すると決めていたので、翌日辞表を提出しましたが、直属の上司に事情を詳しく説明したら感動され、デザイン本部長に休職して参加できるようかけ合ってやると言われ、その結果、休職して参加することになりました。当時はそんな長期休暇を会社が認める規約もなかったので、本部長が社長にかけ合ったと聞きました。

海外協力隊では貴重な体験をされたのでしょうね。

 そうですね。その時のことを語ったら、話は尽きません。

帰国後、なぜアメリカへ?

 3年近くたって、復職後の配属先は栃木県矢板市にあるデザインセンターでした。帰国後は関西に戻れると思っていたので、正直がっかりしましたが、会社には3年間の借りがあるので、どんなに辛くても3年間は我慢するつもりで赴任しました。幸い大阪で一緒に働いた仲間もいましたし、海外向けテレビのデザインを担当して、海外出張の機会も与えてもらい、あっという間に3年経過して「都会で何か新しいことをしたいなあ」と思い始めた頃、アメリカのメンフィスに新たにデザインセンターを設立するという話が持ち上がったのです。日本にいてお茶漬けを食べながらデザインしても、なかなかアメリカ人のデザインテイストや嗜好は理解できないということです。

 そこで、ホンジュラスの電気もないようなところで生活していた北川ならゼロからの立ち上げに適しているだろうというような話になったようです。私もちょうど日本に飽きかけていたところだったので、快諾してアメリカへ行くことになりました。結局、アメリカには約7年間滞在しました。

その後、マレーシアでもデザインセンターの立ち上げをされたんですね。

 そうです。帰国して半年も経たないうちに本部長に呼ばれ、「これからはアセアンの時代だ。アセアン地域にデザインセンターを設立したいのでよろしく頼む!」と言われました。「いつ、どこに作るんですか?」と尋ねても「それを考えるのも君の仕事だ」と言うのです。

 当時デザイン部門には200人ものデザイナーがいるのに「なんでまた私が……」とも思いましたが、承諾しました。

 約8年間、マレーシアでアセアン地域に向けたデザイン開発を担当して帰国。日本では大阪の本社で海外ブランド戦略を担当することになりましたが、約1年後には三たび海外赴任。インドネシアでブランド戦略業務を約4年半担当した後、再びマレーシアに戻り、アセアン全域、オーストラリアや中近東、アフリカ地域のブランド戦略を2年半担当して定年退職しました。

会社を退職後はどんなことをしましたか。

 入社以来、好きなことをさせてもらいながら、どこか醒めたところがあり、会社と自分はギブ&テイクの関係だと思っていました。でも、さまざまな活躍の場を与えてもらったことにはすごく感謝しています。それまでの成果は自分の実力だけではなく、会社という看板のお陰だったという思いもありましたので、退職後は看板なしの自分に何ができるのか、試してみたいと思っていました。

 そこで中国系マレー人をパートナーに、ミャンマーで商品展示台やイベントの施工やデザインをする会社を立ち上げました。シャープに在籍していた時、何度かミャンマーに出張し、施工業者のクオリティの低さを痛感していましたので、同業者も困っているはずだと思ったのが動機です。そして1ヶ月の半分はミャンマー、半分はマレーシアの生活が始まりました。

 予想通り日系企業を中心にミャンマーに進出している海外の企業からの注文が舞い込み、ビジネスとしては順調でした。

 しかし3年経過した頃、今まで経験をしたことのない業務、経理や総務関連に加え、キャッシュフローの管理や売上の回収などが思いのほか大変で、楽しみながらやるという当初の思惑ははずれ、だんだん苦痛になってきました。またパートナーとビジネスに対する考え方の違いも徐々に大きくなっていきました。ずっと黒字が続いていたので、生活のためであれば続けたと思いますが、定年退職しているのにどうしてこんなに楽しくない仕事を辛抱しながらやっているのかと自問自答し、退くことを決断しました。

 その後、私がミャンマーのビジネスから手を引いたと聞いて、インドネシア当時の仲間が再び熱心に誘ってくれました。面白そうな仕事だったのでアドバイザーを引き受けることにし、今は月に一回くらい、ジャカルタに出張してサポートしています。

海外にいたからこそ、日本への関心が高まった。

長い海外生活ですね。その時に学んだことはなんですか。

 そんなに長くいたつもりはないんですが、気がついたら29年も経っていたという感じですね。

 海外で学んだことはたくさんありますね。と同時に、日本文化に対する興味が増し、愛国心も強くなりました。日本にいた時は海外への憧れや好奇心が勝っていて、日本のことはそれほど好きでなかったように思います。しかし、海外に住んで日本の良さを実感しました。日本で当たり前の権利だと感じたことが海外、特にアセアン諸国では当たり前でない。日本人として恵まれていることを痛感しました。今の日本に不満のある人は、一度海外で数ヶ月間生活してみたらいいと思います。日本の良さを実感すると思います(笑)。

 日本ではよく親は選べないと言いますが、それ以上に重要なことは、どんなに頑張っても生まれる国を選べないということです。多少貧しい家庭であっても日本に生まれたというだけで最低限の教育は受けられますし、いろんな選択肢があります。好きなことができるかどうか以前に、選択肢があること自体が幸せなんだと気づかされましたね。一方で、中南米やアセアンの貧しい国で生まれたというだけで、本人の努力だけではどうすることもできない現実を目の当たりにしてきました。極論かもしれませんが、世界は1%の恵まれた人と99%の恵まれない人で成り立っているということを実感したのです。

これからどんな人生を過ごしたいと思っていますか。

 いくら努力しても貧困生活から抜け出せない人をたくさん見てきたこともあって、発展途上国でなんらかの社会貢献活動にも関わりたいと思っています。「魚を与えるのではなく、魚の取り方を教えること」これが持続可能なサポートだと思います。自分の目でビフォー・アフターが確認できるような参加型のサポートをしたいと考えています。

 私は今年(2017年)の9月に65歳になりました。これからの人生を考える意味を含め、京都のお寺に3泊4日の禅修行に行ってきました。いくつになっても新しいことにチャレンジする気持ちは持ち続けたいですね。

 一方、人生の終着点は誰にもわかりません。最近は楽しみを先送りしないことを心がけています。今までもそうでしたが、行動の決定基準は、「それが好きかどうか、楽しいかどうか」ですね。その時にやれること、やりたいことができれば幸せだと思います。

(本文写真上から ①ミャンマーで出会った首長族と ②インドネシア時代 ③今後、北川氏が参加を検討しているミャンマーの小学校 ④インドネシアでの植樹風景

 

                      

 

 

 

 

 

 

 

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