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紺碧の将

落書きする子はダメな子か?

2011.06.26

 前回、子どもの教育について書いたが、今回はその続き。

 最近、電車の中の広告で気になるものがあった。「ノートで授業参観」というキャッチコピーがついた大手進学塾の広告だが、ボディコピーを読むと、おおむね次のようなことが書かれている。

──ノートを見るとその子の学習態度がよくわかる。落書きばかりしている子もいれば、要点をきちんとまとめている子もいる。あなたも時には我が子のノートを見てください。それは形を変えた授業参観でもあるのです。

 

 細かい表現はちがっていると思うが、大意はそんなところである。

 

 さて、このなかで、「落書きばかりしている子はダメな子」というレッテルが、言外に貼られていることに気づく。反対に、要点をきちんとまとめている子はいい子だと。

 要点をきちんとまとめている子が悪い子だとは思わない。でも、日本中、そういう子どもばかりになったら気持ち悪いと思わない? 見方を変えれば、先生が言ったことをただきちんとまとめるだけなんてつまらないと思う方がまともだと思う。そういうと語弊があるが、少なくとも落書きする子がすなわち悪い子だとする考え方には断固反対だ。

 私は今まで数多くの成功者に取材しているが、「子どもの頃は落書きばかりしていてねえ」という話を何度も聞いている。落書きをするということは、あるイメージが湧いてきているということだ。なんらかの感性が活発に働いているということだ。さらにいえば、先生の授業が退屈なのだ。

 私がなぜ歴史好きかといえば、小学校のときの先生に負うところが大きい。5年生のとき、歴史のおもしろさに目覚めた。その先生は教科書など使わず、いろいろな話をしてくれた。大きな川をはさんで源氏と平氏が対峙していたときのこと、雪の日、鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏に隠れていた公暁が源実朝を暗殺するときのこと……。たぶん、あのときの高久少年の目はランランとしていたと思う。「歴史はなんてオモシロイのだ!」まさにそう思った。

 もし、あのときの先生が、ただ謹厳実直なだけの人だったらと思うと、おそろしくなる。今の歴史の授業の大半は、死んだ風景の羅列に過ぎないと私は思っているが、あのとき、あの先生じゃなかったら、私も歴史をそうとらえていただろう。

 結論。いろいろな子がいていいじゃないか。その子のいいところを見極めて、伸ばしてあげるのが大人の務めではないか。

 我が家の海なんぞ、日がな一日寝ているか主人に甘えているかエサを食べているかのどれかだ。でも、ちゃんと自分の個性を発揮している。発揮しているから1円もなくても気楽に生きていける。

 と、最後は主旨とまったく関係のない話になってしまったが、要するに落書きする子をダメな子だと決めつける社会は健全だとは言えないということ。あのようなコピーを考えたコピーライターがいて、あのような提案をした広告代理店があって、あのような案を受けいれた進学塾があって、あのような広告を何の疑問もなく受けいれる親たちがいる。

 そのような渦中に自分がいたら、まちがいなくやる気をなくすね。

(110626 第261回 写真はあくびする海)

 

 

 

 

 

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