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紺碧の将

子どもは国の宝

2011.06.21

 これは理想的な子どもの教育ではないか!

 国立市にある子ども向けの学習塾・悠学舎の授業を見たとき、そう思った。

 私が見学したときは、小学3年生2人、5年生1人、6年生1人の計4人だったが、どの子も目がイキイキとし、じつに楽しそうに、かつ真剣に学んでいた。

なにより驚いたのは、授業の内容だった。「公教育で欠けているもののほとんどがここにあるじゃないか!」そう思った。

 悠学舎の代表は森田恵さん。もともと高校教師だったが、教師になってすぐ、日本の公教育の現状を突きつけられる。受験勉強をくぐり抜け、そこそこ優秀であるはずの高校生たちの多くが、感じたこと・思ったことを1行も書けないという現実を目の当たりにし、愕然とするのだ。森田さんは、「感じていることや思っていることはあるのに、それを表現できない自分が哀しい」と苦しそうに言ってきた生徒の言葉が印象的だったという。

生徒たちがそうなってしまうのは当然だ。そういう教育なのだから。

戦後、日本の教育の主眼は、「目指す学校に合格するために、いかに効率よく知識を増やすか」にあった。受験に関係ないと思えるものは、ほとんど忌避されるようになってしまった。ある時間内で、あらかじめある正解をいかに早く得られるかが優秀であるかそうでないかを分ける尺度になってしまった。

そんなバカなことがあるものか。世の中で、そういう知識はほとんど役に立たない。そもそも最初から答えのあるものなんて、ほとんどない。答えもひとつとは限らない。無限の中から、答えを導き出す「考える力」やそれを「表現する力」がなかったら、どんなにたくさん知識を増やそうが、有効に使われることはない。

さらに進学塾などは、出題傾向を予測して合理的に覚えるなどというとんでもないテクニックも教えている。一流の大学に入学し、一流の企業に就職することが「正しい」ことだと教師も親も生徒本人も思い込んでいるからこそ成り立つ、不可思議な学びを性懲りもなく続けているのが日本の教育の場と言ってもいい。

そろそろ、そういうバカらしさに気づいてほしい。ほんとうにわが子の幸せを望むなら、その子にとって何が必要かをいっしょに考えてほしい。

もちろん、知識は大切だ。それを否定するつもりはまったくない。私も知識の習得は、けっこう好きな方だ。

ただし、自分の心で感じ、自分の頭で考え、それを書いたり話したりする力があり、他の人のいいところを見る習慣がなかったら、どんなに知識を増やしても無意味だ。私はそれを「その場限りの教育」と呼んでいる。その知識がうまく生かされないからだ。

本来、学びというのは、その子の人生がよりよくなるためにあるべきであり、そういう意味で、子どもの教育は「一生ものの学び」であるべきだ。しかし、現状は大きくかけ離れている。これでは、子どもたちの心がギスギスしてしまうのも無理はない。同級生はすべて「ライバル」になり、蹴落とすべき対象でしかなくなる。

 

公教育の現場に失望した森田さんは、教職を辞し、ある学習塾での勤務を経て、約10年前に悠学舎を設立した。

 

例えば、こんな授業風景がある。森田さんが朗読した短い物語について、子どもたちがすぐさま感想文を書く。それを一枚一枚森田さんが読み上げた後、その感想について他の子どもたちがコメントをする。その言葉のなかに、すでに社会性があり、いっしょに学んでいる子のいいところを見つけようという心があることがわかる。他の人のいいところがわかれば、自分のいいところもわかる。あるいは、逆も成り立つだろう。自分に自信がつけば、他の人のいいところも見えてくる。

そんな授業風景を見ているうちに、あっという間に90分が過ぎてしまった。

最後は、親が来て、親の前で子どもたちは学んだことを発表する。それを聞いて、こんどは親がコメントを述べる。

 

悠学舎の学びは、言葉を磨きながら、「感じる力」「考える力」「表現する力」を養い、人と比べない自分をつくり、人間力の基礎をつくることにある。それさえできれば、学習意欲はおのずと湧き、学校の成績もあがるにちがいない。

次号『Japanist』(7月25日号)にて悠学舎を6ページの記事で紹介する。

(110621 第260回 写真は悠学舎の授業風景)

 

 

 

 

 

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