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紺碧の将

東洋人と西洋人の自然観

2011.05.23

 まだ興奮醒めやらぬ状態で、これを書いている。昨夜のコンサートの余韻がずっと残っているのだ。及川浩治という若手ピアニストによる協奏曲シリーズ(1回の公演で2つのピアノ協奏曲を弾く)のフィナーレを飾る演目は、ブラームスの1番とベートーヴェンの5番。いずれも大作である。前者は壮大な彫刻のごとき立体感と荘厳さを備え、後者は大胆かつ緻密な建築物を思わせる。それを一人で弾いてしまうというのだから、あっぱれなものだ。普通、ピアノ協奏曲を2曲連続で弾くという無茶はしない。ひとことでいえば、指がもたないからね。それなのに……。

 しかも、イケメン&貴公子風のいでたち。身のこなしも自分の良さを知り尽くしているかのような風だから余計たちが悪い(?)。

 棒を振ったのは、及川氏とはまるで正反対のお方。頭に照明器具がくっついているのかと思えるほど眩しくて、小さな背丈でおおよそ5頭身というところか。だが、お茶目そうで愛嬌があって、その上にとんでもない癖がある。なんと、口三味線のように、リズムに合わせて声を発するのだ。声というよりも、そろばんを振っているような音といえばわかりやすいだろうか。

 それはともかくとして、人間それぞれに与えられた天性をそれぞれが発揮するとこういう空間になるのだなということをまざまざと思い知らされた。曲を作る人、演奏する人、それぞれの楽器を演奏する人、それをまとめて指揮する人、楽器を作る人、調律をする人、舞台を作る人、照明を担当する人、音響を担当する人、そして極上の音楽を求める人……など、無数の人間によって、この世のものとは思えない、幸福で典雅な空間は作られた。一流のスポーツチームもそうだが、「人の力の和」というものがいかに凄まじいパワーをもっているか、まざまざと思い知らされた。

 毎回思うのだが、このような芸術を作った西洋人はまこと凄い。

 

 しかし、西洋人ばかりがいいわけではない。というか、いいところと同じくらい、邪悪な面も併せ持っているといった方がいいだろう。同じ人間でもわれわれ東洋人と西洋人は根本的に異なる部分がたくさんある(もちろん、人類共通のものもあるが)。

 その最たるものが自然観だろう。東洋人、特にわれわれ日本人は自然をカミと同一に考え、ひたすら畏敬し、恭順し、共生することを是としてきた。だから、今回の原発事故で食料を与えられず、餓死してしまった牛たちを見て、まるで我がことのように憐憫の情が増すのだ。

 西洋人にもそういう感情はあるだろう。だが、自然を「共生する対象」ではなく「克服する対象」とみなしていることは明らかだ。

 その例としてふさわしいかどうかわからないが、マドリッドで見た闘牛を思い出してしまった。ヘミングウェイファンを自認する私は、あまり気乗りがしないまま闘牛場へ足を運んだ。ヘミングウェイがあれだけ熱狂したものだから、愛読者として一度は見ておくべきだという理由で。

 始まるやいなや、その場に来たことを後悔した。

 たしかにマタドールの動きは優雅で力強く、美しい。しかし、牛と公平かつ正当に闘っているとはとうてい思えなかった。なぜなら、マタドールの周りには多くのバンデリレロ(槍を使う闘士)がいて、なにかというとマタドールを助け、多くの槍を牛に突き刺し、徐々に体力が弱まるようにしている。

 とっさに思った。

 「卑怯だ!」

 やがて、体中に槍を受け、牛は豪快に倒れる。そして、マタドールは牛の眉間あたりを剣で突く。とたんに牛は四肢を伸ばし、こと切れる。

 牛が劣勢になるにつれ、何度思っただろうか。「がんばれ、負けるんじゃない。マタドールを八つ裂き・半殺しにしてくれ。その勢いで観客生になだれこんでもいいぞ」と。不謹慎な! とお叱りを受けそうだが、あの時、私は牛の立場になってあの卑怯な闘いを見ていたのだった。

 しかし、私の願いもむなしく、五頭か六頭の牛がおびただしい血を吹き上げ、屍となった。私の隣では貴婦人然とした女性が白い手袋なんぞをはめおって、熱狂していた。やはり、日本人と西洋人(特に南欧)は根本的にちがう人種だと思った瞬間であった。

 

 さて、現在は闘牛もかつての人気はなく、興業数も激減しているという。いい傾向ではあるが、今でも毎日多くの牛が大衆に見られながら死んでいることに変わりはない。

(110523 第253回 写真はマドリッドの闘牛場。殺された牛が牽かれていく)

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