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紺碧の将

不合理なクルマの粋

2009.11.03

 私はどちらかというと、合理性よりも「不合理性」を越えた「美」に惹かれる。数学は美しい学問だと言われるが、数字が割り切れると、心の中では割り切れない思いが残る。というか、数学的思考回路がまったく機能していないので、そもそもその魅力がわからない。

 反面、「人生とは何か」「人の役割とは何か」「人間とは何か」という雲をつかむような問いに対しては大いに興味を覚える。正確な答えがないところも自分に合っている。今の時代、『fooga』や『Japanist』を発行していることでもわかってもらえると思うけど、経営者としても合理的ではないと思う。

 なぜなら、現代においてまったく不合理なもののひとつが、書籍や雑誌の発行じゃないか。必要な情報はインターネットで得られるし、そもそも活字を読まなくても生活に支障がない人が大半だ。

 さらに、どう考えても最大限の読者を確保するためにはもっとも不適切なタイプの雑誌を2つも……。これだけで十分に合理的じゃないことがわかるだろう。でも、それを越えたところに大いなる歓びがある。

 

 好きな本もそうだ。ハウツーものやビジネス書はほとんど読まない。ああいうものは私にとって、抜け落ちた猫の毛程度の価値しかない。

 モノを選ぶにしてもそう。ソツがないものには愛着がわかない。

 クルマもそう。だいたい、どういうクルマを選ぶかで、その人の価値観がわかる。そもそもクルマを持つかいなかも含めて。

 私はずっとクルマが好きだったし、今でも好きだ。自由に遠いところへ行ける象徴でもあるし、自分の足代わりでもあるし、自己表現のひとつでもある。A地点からB地点への移動手段だと割り切れば、選択肢も変わってくるのだろうが、前述の通りなので、どうしても自分なりのこだわりがある。

 29歳のとき、フランス車を伴侶に得たが、その後はずっとイタリア車。今、乗っているのはアルファロメオのスパイダー。ミニバンだハイブリッドだという時代に、左ハンドル・マニュアル・2シーターである。もちろん、荷物もほとんど載せられない。まあ、ひとくちで言えば、「つかえねえクルマ」ということになる。

 「つかえねえクルマ」を作ることにかけて、イタリア人ほど適した民族はいない。さる高名な方が言ったそうだ。「この地球上には2種類の人間がいる。イタリア人とそれ以外と」。ついでにもうひとつ、「フランスは素晴らしい国だ。フランス人さえいなければ」。後者はこの文脈には関係がない。ちなみにそれを言ったのはイギリス人である。フランス人はけっこう嫌われているのかも。もっとも、彼らはそんなことにはまったく無頓着だと思うが。

 

 ときどき、思い立ったとき、クルマで日光へ行く。

 天気が悪くなければ、幌を開けて日光の「気」を燦々と降り注いでもらう。いろは坂を上っていくと、徐々に温度が下がっていくのがわかる。その微妙な変化が心地よい。

 日光に近いというのは本当にありがたい。やはり特別の地だ。

 徳川家康が、なぜ自分が神君になる地をここに定めたか、わかる気がする。東照宮には、家康や家光が眠っているが、江戸時代が300年近くも争いがなかった理由は日光東照宮に秘められている。残念ながら、徳川を憎む明治新政府の恣意的な情報操作によって、「東照宮は醜悪、桂離宮は美しい」というタウト建築観が根づいているが、そもそも東照宮は建築物というよりはメッセージの塊なのだ。それに、タウトはほとんどの日本の建築物を批判している。桂離宮のことも手放しで賛美しているわけではない。

 あれほど平和への祈りが形となって残っている例は稀有だろう。

 いろいろな理屈はともかく、愛車での日光散歩が好きなのだ。

(091103 第125回 写真は霧降高原))

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