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紺碧の将

紀尾井坂で参拝

2009.08.22

 過日、紀尾井坂へ行った。

 なんのためかって?

 明治11年、ここで大久保利通が暗殺されたのである。近代日本の骨格を作った人に対し、感謝の念を捧げるのは国民として当然の義務ではないか。そのような思いから、最期を遂げた場所で手を合わせたのである。

 しかし、残念ながら、そこで大久保が殺されたことなど、何一つ書かかれていなかった。あるいはつぶさに探せばあったのかもしれない。いずれにしても、目につく場所にそれらしきものはなかった。

 おそらく、そんなことだろうなと行く前から思っていた。この国の人たちは、国家建設に尽力した人を顕彰することは好まない。そのかわり、滅んでいく人に異様な思い入れを示す。そのあたりのことを『Japanist』第3号の冒頭で書こうと思っているが、それは日本人の特質であると思う。滅びゆく人に同情をするのはけっして悪いことではないが、一方で、多大な功績を残した人を正当に評価できないのは明白な欠点であると思う。その遠因を探れば、一億総ムラ社会における「妬み・そねみ」が浮かび上がってくるのではないだろうか。

 ところで、紀尾井坂と言われた所以は、かつてこのあたりに紀伊家、尾張家、井伊家の邸宅があったからだというのは、そこに建てられていた看板によって知った。

 

 坂を下る時、ふと思った。大久保はあの世から今の日本を見て、どう思っているのだろうか、と。無私の精神を貫き、命がけで西洋列強に伍する国内統治システムを築きあげようとしていた大久保から見れば、今の政治など、フンコロガシみたいなものだろう。

 もっと端的に言えば、今の日本はシャブ漬けもいいところで、体も心もボロボロ状態だ。それなのに、国家経営を担おうとしている人たちは、さらにシャブを与えようとしている。というか、国民が「もっとシャブくれ」と言っている。景気対策という名のシャブを。もうカンフル剤にもならないというのに……。次世代の人たちがどういう境遇になろうと知ったことではない、とみんなで無責任に「生活が第一」「景気対策」「年金」「各種補助金」と言っている。酒井法子がどうのと言っている場合じゃなかろうが。

 

 もうすぐ選挙だが、私は今、悶絶している。なぜなら、票を誰に投じようか、決められないでいるのだ。投票は国民の義務だ、と日頃言っているにもかかわらず、今回は棄権もありかな〜などと考えている。誰の名前を書いても、強烈な自己嫌悪になりそうで。結局、棄権はよくないので、誰かに投票しなけれなならないが、該当者がいないのだ。いったいどうすればいいの? 誰か教えてほしい。

 ひたすら拷問のような日々である。

(090822 第111回 写真は紀尾井坂)

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