多樂スパイス

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紺碧の将

超ド級の快楽

2018.01.13

 世の中に快楽と呼べるものは無数にあるが、私にとって、長篇小説の海に漂い、どっぷり浸かることはその最たるものである。

 毎年末年始に長めの本を読むのを習わしにしている。昨年は『植物の神秘生活』、その前は執行草舟の『根源へ』だった。

 今回選んだのはアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』。20年ぶりの再読である。一般に普及しているのは岩波文庫全7巻だが、私は数年前に新井書院から刊行された本を購入していた。なんとA6版ほどの大きさでおよそ1500ページ。あの大長編を1冊にまとめたもので、大矢タカヤス氏による新訳。横組みで挿絵が295枚もついている。

 物語の大筋は多くの人が知っているだろう。好きな女性と結婚式をあげるという人生最良の日、無実の罪によって捕らえられ、わけもわからぬうちに絶海の要塞・イフ城に幽閉される青年エドモン・ダンテスの復讐譚である。

 14年という長い歳月、ダンテスはイフ城の地下牢で絶望の淵に呻吟するが、ファリア神父によって知の手ほどきを受け、生まれ変わる。そのシーンは、20年前に読んだ時の衝撃と変わらない。雷に直撃されたかのように魂を揺さぶられた。

 脱獄後、容姿も中身もまったく別人になっていたモンテ・クリスト伯爵は、自分を貶めた4人(恋敵フェルナン、強欲な会計士ダングラール、ヴィルフォール検事、隣人カドルース)に復讐を果たすため、緻密な戦略をたて、精密機械のように着実に実行していく。

 そのプロセスに、世界中の愛読者は魅了される。純粋で世間を知らない青年が塗炭の苦しみを味わい、万能の知的武装をし、獲物に近づいていくのだ。途中、当時のフランスの社会風俗や政治状況も丹念に描かれる。人間の美徳やエゴも、これでもかと炙り出される。最上のエンターテインメントでありながら、最上の人間学テキストとなりえているゆえんだ。

 今回、あらためて心に残ったのは2ヶ所。ひとつは、許嫁メルセデスを奪ったフェルナンの息子アルベールとモンテ・クリスト伯爵の決闘の前夜のシーンだ。息子は伯爵にはとうていかなわないと思ったメルセデスはモンテ・クリスト伯爵を訪ね、息子の命乞いをする。自分の夫となるはずだった人に対し、息子に負けてほしいと嘆願するのだ。負けるということは、死を意味する。煩悶した末、モンテ・クリスト伯爵は了承する。緻密に復讐のプロセスを進めてきたのに、かつての許嫁に挫折させられるのだ(実際はそうならないが)。その時の伯爵の言葉だ。

「おれはばかだった。復讐しようと決心した時、心臓をむしり取っておけばよかった」

 もうひとつは、ほぼ復讐を果たし、かつて幽閉されていたイフ城を訪ねた時のシーンだ。いまや観光名所となっているイフ城の中で、モンテ・クリスト伯爵は、案内人からひとつの贈り物をもらう。それは、ファリア神父が牢獄で書いたイタリア王政についての大著だった。筆記用具もない状況下、ファリア神父はその書物を著した。モンテ・クリストは自分を変えてくれることになった「知」の象徴をその本に見出し、最上の宝物のように持ち帰る。

 すべてが学びだよとこの壮大な物語は教えてくれる。どんなことも学びによって解決できる、と。

 人生の長さは、それができるほどの按配で設定されている。

 

 私はまだ快楽の海を漂っている。

 

※悩めるニンゲンたちに、名ネコ・うーにゃん先生が禅の手ほどきをする「うーにゃん先生流マインドフルネス」、連載中。

https://qiwacocoro.xsrv.jp/archives/category/%E9%80%A3%E8%BC%89/zengo

(180113 第781回 写真上はイフ城外観、下はイフ城の牢獄の内側より外を見る。いまから10年ほど前、イフ城を訪ね、撮影した)

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