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紺碧の将

櫻井さんも、母も偉大なり

2009.06.27

 いよいよ待ちに待った櫻井よしこさんへの取材がかなった。

 赤坂の閑静な事務所にて、「日本人の特質」という切り口でいろいろなことをお聞かせいただいた。

 私はずっと櫻井さんのファンだった。あの柔和な物腰と上品な語り口、それなのに語られる内容はカミソリのように鋭い。勇気もある。だから私はずっと尊敬していたし、憧れていた。

 そのへんのオッチャンたちが百人束になってかかっても、ウィンクひとつでころりと退散してしまうかのごとき、「高貴な城壁」である。運良く城壁を乗り越えて談判の機を得ても、舌鋒に切り刻まれ、たじたじとなってしまうにちがいない。

 櫻井さんのような女性がどうして「できあがる」に至ったのか、ずっと不思議だった。いったい、どういう作用があったのだろう、と。

 それは『何があっても大丈夫』という本人のエッセイによって解けた。やっぱり、その背後には母親の大きな愛情があったのだ、と。だから、私はまず櫻井さんのお母様に最大級の賛辞を捧げたい。

 実際、母親というのは偉大である。人間を大きくも、卑小にもしてしまう。父親の役割もそれなりにあると思うが、母親の役割はそれを大きく凌駕する。私自身の体験を思い出しても、そのことがわかる。父親には何かを教わったという記憶がほとんどないが、母親は身をもってさまざまなことを教えてくれた。こんなに本好きにしてくれたのも、母親のおかげでもある。

 小学生の頃、学校の図書館で借りてきた本を母といっしょに読んだ。読み終えてから、簡単に感想を言い合った。だが、小学4年生の時、ヘッセの『春の嵐』を読み終えた後、母は寂しそうに、しかし、いくぶん嬉しそうに言った。「もう、ついていけないから、多美男、あとは一人で読みなさい」。その時の表情がはっきり脳裏に刻まれている。モノは買ってくれなかったが、時々本だけは買ってくれた。

 小学5年生の時、司馬遼太郎の『最後の将軍』を買ってほしいとねだった時も、すぐに買ってくれた。子どもながらに、本を読むことだけは特別に許されること=良いこと、という図式ができあがった。おかげで本への興味は俄然増し、中学時代には世界の古典をあらまし読み尽くし、高校生になると世界の現代文学に興味が向いた。今、私の書棚にあるシリトーやパヴェーゼ、カミュ、サルトルなどの本はすべて高校時代に母にねだり、買ってもらったものである。もちろん、家宝の印がついているのは言うまでもない。

 おっと、櫻井さんの話から私個人の話になってしまった。申し訳ない。

 櫻井さんへの取材記事、「『戦後日本人』の失敗から学ぶ」は、『Japanist』第2号にて。

(090627 第104回 写真は取材中の高久と櫻井よしこ氏)

 

 

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