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紺碧の将

三島由紀夫、最期の痕跡

2017.09.29

 防衛省ツアーなるものがある。ほぼ毎日、午前と午後に分けて、約2時間10分かけて省内の見所を案内してくれるというものだ。多いときは100人以上が参加するという。

 見所はなんといっても、市ヶ谷記念館である。今回から2回にわたって紹介したい。

 自然の造形として、市ヶ谷台は都内で最も高台にあるという。明治維新後、尾張徳川家から市ヶ谷台にある広大な屋敷が明治政府に返上され、京都兵学寮がそこに移転された。

 昭和12年、陸軍士官学校本部として1号館が建設され、同学校が他へ移転した後、代わって大本営陸軍本部、陸軍省、参謀本部が置かれることになった。

 戦後はGHQに接収され、東京裁判の法廷として使用されたという歴史がある。

 平成12年、防衛省(当時防衛庁)が移転してきた後、新築工事が行われ、それまでの建物の一部が敷地内に移築されることになった。それが市ヶ谷記念館である。

 

 東京裁判のことは次回に譲るとして、今回は三島由紀夫事件について書きたい。

 三島はノーベル文学賞候補にもなったほどの小説家だ。主要な作品は私もほとんど読んでいるが、どちらかといえばあまり肌が合わない。美文で格調高いが、なんというか、(私にとって)風通しが悪いという感じもする。ま、それはいいとして……。

 三島が昭和45年、自衛隊に決起を呼びかけ、その直後に割腹自殺をした。当時、私は小学5年生頃だった。まだ三島を読んではいなかったが、いろいろな本を片っ端から読み始めた頃でもあり、すごく衝撃を受けた。

 市ヶ谷記念館に、三島が自衛隊員に向けて演説をしたバルコニー、そして割腹自殺をとげた旧陸軍大臣室がある。

 三島は当時の総監・益田兼利を人質にとって立て籠もったのだが、益田を救出しようとして入ってきた自衛隊員を切りつけ、何人かに重傷を負わせた。その時に三島が振り回した刀の傷が扉についている。わずか数本だが、歴史の一場面を物語る、生々しい痕跡だ。

 クーデターが成功しないとみた三島は陸軍大臣室に戻り、割腹自殺を遂げた。この時、切腹の作法を熟知していなかったためか、腹筋を切りすぎて上体を支えられなくなり、頭が床に着いてしまったという。そのため、森田必勝はうまく介錯できず、3度も刀を振り下ろしてようやく首を刎ねたという。それは凄まじい修羅場だったようだ。ちなみに、三島の首はネットでも簡単に見ることができる(見たい人はあまりいないだろうが)。

 三島の行動についてコメントするのは控えたい。平和は空気のようなものだと考えているわれわれが軽々しくコメントできるようなことではないと思っているからだ。

 三島の演説内容はこうだ。

 

 ——おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。(中略)俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。4年待ったんだ、最後の30分に……待っているんだよ。諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ。どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にぺこぺこするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。

 

「自分を否定する憲法」。今でも自衛隊は憲法によって身分を保証されていない。有事の時は自衛隊を頼るのに、彼らの存在を認めようとしないのだ。悲しいかな、それが日本人でもある。

 憲法や安保で民進党に踏み絵を迫る小池氏のやり方は、じつにまっとうである。

(170929 第755回 写真上は旧陸軍大臣室。下は演説する三島由紀夫)

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