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紺碧の将

あれから30年、このあと42年

2017.04.02

 あれから30年も過ぎたのだと思うと、感慨深いものがある。

「いろいろな会社に入ったけど、どこもしっくりこない。やはり自分は組織に向いていない。こうなったらやぶれかぶれで事業を興す以外にない」
 やぶれかぶれだったかどうかわからないが、起業する以外に生きる道はないと思ったことはたしかだ。なにしろ、どの会社でも「使えないヤツ」だったから。
 広告の企画・制作は自分の適性に合っていると思った。アーティスティックな感性とアイデア力を問われるが、あとはほんの少しの営業力があればいい。美術やデザインを専門的に学んだわけでもなく、営業職としてはどこでも使い物にならなかったのに、そう思えた。ま、根拠のない妄想に近かったのだ。
 始めるや、すぐに火がついた。面白かったのだ。仕事をしてそう思えたのは、生まれて初めてだった。
 バブルの勃興という時代の追い風もあったのだろう。
 宇都宮が東京から100キロという適度な距離だったことも幸いしたのだろう。電通や博報堂に荒らされることもなく、地場の企業もそこそこあるという立地は好都合だった。毎日ドンパチをしたが、競争しても負けない体力がついた。
 従業員が増えて手狭になったため引っ越ししようと思ったとき、ふと「社屋を造ろう」と思った。借金を返せる根拠はない。なのに1億円近くもの借金をした。ちょうど30歳の頃だ。
 世の中のバブルが弾けて、広告業界が一気に下り坂になってからも、業績を伸ばした。クライアントや社員に恵まれていたのだろう。
 40の声を聞く頃、なんとなく先が見えてしまい、急速にモチベーションが下がった。その頃はアジアのリゾートへ通い、日がなのんびりしていることが多かった。午前中は自宅で物書きをし、午後、出社するという勤務形態にしたのもその頃だ。社員からすれば、「仕事もしないで、なんて社長だ!」と思ったことだろう。しかし、人からどう思われても気にしない性格というのは楽ちんだ。
 そのうち、ある雑誌を引き継ぐ話が来て、自社で発行する〝ハメ〟になった。
 思えば、それが転換点となったようだ。『fooga』から『Japanist』へとつながった。また、出版事業にも誘い込まれ、フーガブックスを始めることにもなった。自社の媒体を持つことはとてつもない労力と費用が要るが、あまり数字を考えない私の「悪いクセ」がいい方に作用したのだろう。人的ネットワークが広がり、めきめきと文章力やデザイン力がついた。優れた人物と会ううちに、「ホンモノのなんたるか」「いい人生のなんたるか」がわかるようになってきた。
 仕事の範囲が広くなり、必要に迫られて都内に拠点をつくり、気がついたら新宿御苑を庭がわりにするという生活になった。
 いま、仕事は全国に広がっているが、もし自社媒体を持たず、宇都宮近辺の企業相手に広告だけを作っていたら、けっしてこうはなっていなかっただろう。
 もちろん、どちらがいいかは断言できない。人それぞれだからだ。しかし、私には合っている。自然の流れで築いた「働き方」だと思う。自分で言うのもナンだが、絵に描いたようなスムーズな流れで現在に至った。

 無作妙用機(無作の妙用のはたらき)。
 作為を持たず、自然体でやっている方が、いい結果になるというような意味だろうか。作為をもって始めた事業もいくつかあったが、それらはことごとく失敗している。まさにそんな感じの30年だった。
 創業当時、時代の花形ともてはやされていた広告業界は不況産業のひとつになり、出版業界はもはや形容しようがないほど凋落著しい。そこに身を置いてはいるが、先を案じてはいない。
 なんでだろう? たぶん、自分の運を絶対的に信じているからだろう。
 どうしてそんなに信じられるのか? 
 わからない。ずっと本質を見つめた仕事をしてきたという自負があり、それは今後もブレないと確信しているからか。あるいは世の中があまりにも浅薄、表面的、末梢的になり、相対的に優位性が高まっているからか。ま、いろいろなんだろう。
 30年の節目に、新たな執筆のテーマがきまった。夏か秋には形にしたい。
 100歳まで現役と豪語しているが、あと40年以上も仕事ができるのかと思うと、ワクワクする。
(170402 第711回)

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