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紺碧の将

船村徹という情愛

2017.02.23

 作曲家・船村徹氏の訃報に接したのは、神戸へ向かう新幹線の中だった。

 

 2006年のある日、「船村徹の付き人」と名乗る若い男性から電話があった。「船村が髙久さんと食事をごいっしょしたいと言っているのですが、いかがでしょうか」と。
 え? どうして船村さん? と意外だった。演歌の悪口を書いたことがバレたかな、と。
 宇都宮のホテルの中華レストランで初めてお会いしたとき、笑いながら「断れらたらどうしようかとドキドキしていましたよ」とおっしゃった。
 大御所にそう言われても困ります。
 なぜ、私に会いたいと思われたかといえば、当時弊社が発行していた『fooga』と私の政治思想によるものだった。とても共感していただいたようだ。
 食事中、驚いたことがある。6人くらい座れる円テーブルがひとつあるだけの個室での会食だったが、くだんの「付き人」はずっと船村氏の後ろで立ったままなのだ。同席するか、あるいは退去してもらったほうがいいのではないかと思ったが、ずっと立たせたままだ。そして、船村氏や私の一挙手一投足をつぶさに見ている。立ち上がろうと察すれば、すかさず後ろにまわって椅子を引くという具合に、ドンピシャのタイミングで対応する。表情も礼儀も申し分ない。なんなのだ、この若者は! と不思議だった。
 あとになってわかった。船村氏はこうおっしゃった。
「髙久さんね、こいつらは歌い手になりたくてずっと私のところにいますが、プロの歌手になれるとは限らないんですよ。どうしても、ダメだとなったとき、世の中で使いものにならなくてはどうしようもないでしょう? だから、せめて人間の基本だけは教えてあげようと思ってね」
 その後、船村氏との交流は続き、日光の楽想館(現在は閉鎖)に何度も足を運んだ。『fooga』でもご紹介した。
 楽想館では、3人の内弟子が食事を作ってくれた。調理をはじめ、生活のすべてが修業だ。船村氏と酒を酌み交わした後、宇都宮にある当時の私の自宅まで弟子が毎回送ってくれた。すべて、至れり尽くせりだった。
 ある日、「『fooga』を続けるのも、なにかとたいへんでしょう?」と言われた。もちろん、費用の面で、である。かなり無理をしていたことは事実だったので、そう答えると、船村氏は弟子に向かってこうおっしゃった。
「まだ、口座にちょっと残ってるよな。明日、髙久さんの会社に送金しておいて」
 翌日、驚いた。けっして少なくはない金額が振り込まれていたからである。
「ま、迷惑かもしれませんが、髙久さんへの応援の気持ちです」
 このままではいけないと思った。なにかお返しができないものかと。
 それで始まったのが、本の出版だった。船村氏の考え方を私が聞き書きし、一冊にまとめる。そういう経緯でできあがったのが『ニッポンよ、ニッポン人よ』である。
 取材の際、いろいろなところへごいっしょした。その都度、いいエピソードがあった。なにより印象深いのは、過剰とも思える、弟子たちへの愛だ。口では悪く言う。「こいつらにはほとほと困ってるんですよ」と。
 しかし、情愛が滲み出ている。並みの人間であれば、何百人もの若者に小遣いを与えながら寝食をともにするなど、しないだろう。やっかいきわまりないし、そもそもそうする義務はみじんもない。
 あるとき、『美空ひばり 船村徹の世界を歌う』という4枚組のCDをいただいた。美空ひばりは不世出の天才だったということがわかると同時に、こんなに多彩な曲を書けたということが驚きだった。
 船村氏は若い時分、五線譜に日記を書いていた。言葉ではなく、音符を使って、日々の心の動きを綴ったのだ。その成果であるのは明白だろう。
 今日(2月23日)は告別式である。
 雨が降っている。駆け出しの頃、苦楽をともにした高野公男が泣いているのだろうか。
(170223 第702回 写真上は楽想館の庭にいる船村氏。下は作曲のコツを語る船村氏)

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