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自分が好きなことを見つけて無我夢中で取り組み、ひとつずつ目標をクリアする。そうやって愉しみながら、自分という人間をぶ厚くしていく……。今がベストで、未来には未知の楽しみがある。これが、多樂の本質である、と『多樂スパイラル』のまえがきで書いたが、その原理原則は今も変わっていない。

日々の生活のなかで、森羅万象に潜む多樂をいかに味わうか。心に映りゆくよしなごとを書き留めておこう。それが読者の方々にとって、なんらかのスパイスになればとの願いもこめて…。

 

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『おおきな木』と『おぼえていろよ おおきな木』

2016.06.28

おおきな木 大の大人が10人くらい集まって絵本の示唆するところについて熱く議論をしている光景は、傍から見るとかなり面白いのではないか。

 先日の多樂塾(第38講)ではシェル・シルヴァスタイン作『おおきな木』と佐野洋子作『おぼえていろよ おおきな木』という2冊の絵本を題材に、それぞれが思うところ、感じるところを述べ合った。
 前者は2010年に村上春樹による新訳が出たので、知っている人も多いだろう。旧版は1976年、本田錦一郎によって訳されたものだが、その違いについても感想を述べ合った。
 同作は、少年と仲のいい、おおきな木の物語だ。無邪気だった少年が成長し、分別がつくようになると、おおきな木と遊ぶのがつまらなくなり、いろいろなものを欲しがるようになる。その都度、おおきな木は少年に与え、最後は幹までも与え、切り株だけになってしまう。やがて年老いた少年は木のところに戻ってきて、切り株に座るというシーンでラストを迎えるという流れだ。簡潔な文章で、あっという間に読める。
 これぞキリスト教の「無償の愛」だ、少年は身勝手過ぎる、いや、少年は神の化身ではないか等、議論百出。その後、原文も読み、二つの訳者の決定的な違い「but not really」の訳についてもユニークな解釈がいくつかあった。
 当日、飛び入りで参加してくれた近藤隆雄氏(サムライ塾主宰、『Japanist』連載中)は、後日、次のようなメールを送ってくれた。ご本人の同意の上、一部を紹介したい。

 ──本田さんはこの文を「きは それで うれしかった…だけど それは ほんとかな」と読む人に疑問を投げかける形で訳しました。しかし村上春樹さんはこの文を、「それで木はしあわせに…なんてなれませんよね」と訳しています。
 どちらも、誤解を生むのであまりいい翻訳ではありません。ふつう英語で not really という時はどちらでもない含みがあります。しあわせだけど、しあわせじゃないアンビバレントな気持です。
 先日、Chinomaで、「あげるものがなくなったから」と言いましたが、そういう気持ちです。
 答えは後の段落にあります。

 

And so the boy cut down her trunk and made a boat and sailed away. And the tree was happy… but not really.

 

 とすれば訳は、「そして木は幸せでした。でも、そうでもありませんでした」
もっとはっきり訳せば、「そして木は幸せでした。でも、悲しくもありました」

 

And after a long time the boy came back again.
“I am sorry, Boy,”
said the tree,” but I have nothing left to give you –

 

 ”I am sorry, Boy,”の sorry,  悲しい理由は、「もうあげるものがなにもない」からです。そう思っていた木は、座らせてあげることができて、最後にもう一度幸せになることができました。
And the tree was happy で終わっています。

 

Come, Boy, sit down. Sit down and rest.” And the boy did. And the tree was happy.

 

 ぼくは後ろにどうしても宗教観をみてしまいます。
God gives, and God takes away.
 ヨブの話ですが、木はヨブのような気がします。そうするとThe boyは神になってしまいますが……。
 愛の宗教などといわれるキリスト教の旧約の神は本当は奪う神なのですね。厳しい砂漠の自然そのままです。
 ヨブで一番有名なのは、家族にも富にも恵まれていたヨブが試され、すべてを奪われた時の言葉です。彼らの神に比べて日本の神はとても優しく、そのイメージを持ってキリスト教やイスラムの神をみるとまったく違う理解になると思います。
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」

 

 じつに素晴らしい解釈だと思う。
 2冊目の『おぼえていろよ おおきな木』についてもユニークな意見が飛び出した。おおきな木が与えてくれることには目がいかず、マイナス面だけをことさらに強調して「おぼえていろよ」と木の幹を足蹴にするおじさん。ついに彼はおおきな木を切り倒してしまう。
 しかし、木がなくなったことによって、それまで木から得ていたものがなくなってしまったことに気づいたおじさんはうろたえ、最後は切り株にしがみついて泣く。
 すると、目の前に小さな芽が出ているのを発見する。そして、おじさんは毎朝、新しい芽に水をあげる。
 簡単に書くと、そのような物語だ。
「このおじさんは木が大きくなった時はどういう反応をするんでしょうね」
 ある人の感想が言い得て妙だった。おじさんは同じことを繰り返すのかもしれない。そういう気がする。
 絵本を語るって面白い。これからもときどきやってみようと思う。
(160628 第646回)

 

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