多樂スパイス
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自分が好きなことを見つけて無我夢中で取り組み、ひとつずつ目標をクリアする。そうやって愉しみながら、自分という人間をぶ厚くしていく……。今がベストで、未来には未知の楽しみがある。これが、多樂の本質である、と『多樂スパイラル』のまえがきで書いたが、その原理原則は今も変わっていない。

日々の生活のなかで、森羅万象に潜む多樂をいかに味わうか。心に映りゆくよしなごとを書き留めておこう。それが読者の方々にとって、なんらかのスパイスになればとの願いもこめて…。

 

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こころのふるさと

2016.06.13

文学全集 誰にもこころのふるさとはある。

 文字通り、故郷の風景だったり、運動部の部室の臭いだったり、実家の自分の部屋だったり……。
 私は「音楽と本でできている」と言ってはばからない人間だが、もっと正確に言えば、ロックミュージックと世界文学(とりわけ19世紀のフランス文学)こそが「こころのふるさと」だと思っている。あらためて考えると、そういう人間が日本をテーマにした雑誌を発行しているというのも妙な話だが……。
 昨年、しばらくぶりにフロベールの『ボヴァリー夫人』を再読し、ある感懐を得た。
「これこれ、この感覚!」
 まだ10代の頃、海外の古典を読んで、体が痺れた。そういう感覚を確かめたくて、ときどき再読をするようになった。
背徳者 今、読んでいるのはアンドレ・ジッド。『背徳者』や『狭き門』で知られるノーベル賞受賞作家だ。1869年に生まれ、1951年まで生きた人だから、古典の類には入らない。
 かつて、石川淳が『狭き門』を「ここには鑿(のみ)の冴えがある」と評したが、ジッドの作品には腕っこきの大工が丹念に形を整えていくような風貌がある。あるいは、手のひらで感触を探りながら理想の形を掘りだす彫塑の仕事に似ているとも言える。
 私がジッドを読んだのは10代の後半。学校の図書室にあったダイジェスト版だった。その後、20代になって文庫で完全版を読み、30年の歳月が流れた。
 物語の筋はほとんど忘れていたが、〝感触〟だけは覚えていた。シニカルでありながら人間的であろうとし、しかし、欲に負けてしまう主人公。プロテスタントから禁書指定を受けたのは当然かもしれない(今でも禁書扱いなのかな?)。
──貧しさは人間を奴隷にする。食うためには楽しみのない仕事をひきうけてしまう。愉快でない仕事というものは、どんなものでもたまらないものだ。(背徳者)

 ところで、今、読み進めているのは20年以上前に購入した中央公論社の「世界の文学セレクション36」の第23巻で、ジッドの『背徳者』『狭き門』『女の学校』『ロベール』、そしてモーリアックの『テレーズ・デスケールー』『知識の悪魔』が収められている。右上の写真でもわかるように、細かい文字の2段組。1ページあたり1150字で約600ページある。
 今、私は57歳だが、この本を裸眼で読んでいるということを強調したい。
(160614 第643回 写真上は中央公論社版。下は新潮文庫の『背徳者』)

 

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