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紺碧の将

自然のありように学ぶ

2016.03.01

スズカケ三姉妹 日に日に変化のあるこの季節が好きだ。少し目を離した隙に、新しい芽が出ている。同じことは人間の身にも起こっているにちがいない。ただ、気がつかないだけ。

 前回、年齢で区切ることの愚について書いたが、そういうことをすべてを否定しているわけではない。特に法律に関したことは、年齢や数字の基準なくして成り立たない。
 要は使い分けだ。健康や栄養に関することなど、条件によって個人差が著しいものについては数字で判断するのではなく、一人ひとりに適した対応をするべきだということ。
 春色無高下 花枝自短長(しゅんしょくにこうげなし かしおのずからたんちょうあり)という禅語がある。太陽の光は一様に注がれているのに、同じ場所であっても花のつきかたはそれぞれ違うし枝は短いものもあれば長いものもある。要するに、条件が同じでも、結果はそれぞれだということ。それが個性であり、尊重すべきものだということ。
 戦後、母子健康手帳が導入されたことが諸悪の根源だと小児科医の真弓定夫氏は言う。そのことによって日本人の赤ちゃんの基準が厳然と示されてしまった。母子健康手帳と我が子を比べては、その差に一喜一憂している母親が少なくないが、母子健康手帳の導入は日本人に牛乳を飲ませようというアメリカの政策だったと真弓医師は言っていた。あながち的外れでもないだろう。
 戦後、医療は進歩し(と、いちおうは言われている)、医師の数も増えた。しかし、それ以上に病気は増えている。このことはどう説明できるのか。
 国家財政を逼迫しているのは、医療と年金など福祉に関わるものだ。執行草舟氏は、本来個人の約束事であった「補償」という概念が、社会の制度になった時点で人間の堕落は始まったと指摘している。こちらも慧眼だと思う。私たちは国民皆保険制度や年金制度を「進歩」とみなしているが、果たしてどうだか。

 話はそれてしまったが、言いたいことは、いろんな人がいていいということ。
 子供の頃から、みんなと同じことをするのが嫌いだった私だが、それで良かったと思っている。なんら困ったことはない。アドラーの「嫌われる勇気」ではないが、全員から好かれようと思うこと自体、自然の理に反している。
 相変わらず毎日が楽しいし、創業以来29年、病気で仕事を休んだことはない。風邪で高熱を出したこともあるが、完全には休んでいない。休む時は遊びと決めている。
 と言うと、驚かれることが多いが、自然のありように学べば、さほど難しいことではない。
(160301 第619回 写真は新宿御苑「下の池」近くにあるスズカケ三姉妹)

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