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自分が好きなことを見つけて無我夢中で取り組み、ひとつずつ目標をクリアする。そうやって愉しみながら、自分という人間をぶ厚くしていく……。今がベストで、未来には未知の楽しみがある。これが、多樂の本質である、と『多樂スパイラル』のまえがきで書いたが、その原理原則は今も変わっていない。

日々の生活のなかで、森羅万象に潜む多樂をいかに味わうか。心に映りゆくよしなごとを書き留めておこう。それが読者の方々にとって、なんらかのスパイスになればとの願いもこめて…。

 

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魂が震える激烈な書『本源へ』

2016.01.16

根源へ 本を読んでいつも感動するわけではない。むしろ、そういう本は極めて稀だ。

 しかし、正月にかけて読んだ執行草舟氏(しぎょう・そうしゅうと読む)の『本源へ』にはずっと魂を揺さぶられた。12月30日、31日、元日のほとんどをこの本を読むことに注力した。かなり分厚い本で、おびただしい人物が出てくる。巻末に人名図鑑が掲載されているほどに。だから、わからない人名に出会うたび、ネットで基礎的な知識だけ仕入れて読み進めた結果、思いの外時間がかかってしまった。しかも、重要と思われる部分をワードで抜き書きする作業で翌日のほとんどを費やした。
 執行草舟、65歳、現代に残る唯一のサムライと言っていいかもしれない。だいたい、自分でサムライを名乗っている輩にろくなヤツはいないというのが私の持論だが、この人は本物だ。もちろん、自分でサムライを名乗るような無粋なことはしない。執行氏の根源は、確たる死生観である。
 小学生時代に岩波文庫をすべて読み、バッハやベートーヴェンを聴くときは板の間に正座していたというほど筋金入りの知的サムライだ。小学5年生のとき、バッハの『マタイ受難曲』(原題はSt.Matthäus-Passion)というレコードを聴いているとき、レコードのジャケットを見て「どうしてパッションという言葉が受難と訳されるのだろう」と疑問をもち、それからいろいろ調べるうち、ふだん「情熱」と訳されるPassionには「受難」という意味も含まれるということを理解し、その後、パスカルなどへ興味の対象を移していった経緯や親交の厚かった三島由紀夫や小林秀雄とのやりとりなど、興味深いエピソードが山ほどある。
根源へ 付箋 また、本サイト「格言」の数回前にも執行氏の言葉を紹介している。
 曰く、「横野郎をやめて縦人間になれば、必ず這い上がれる」。
 横野郎とは、他人の目を気にして人に好かれよう好かれようとしている、横ばかり気にして生きている水平人間のことをいう。SNSに魂を奪われている人はこの典型だろう。フェイスブックで何千人と友だちになろうが、充足感は得られない。論語の「和して同ぜず、同じて和せず」の通りである。心底から信頼し合う関係は、いつもべったりくっついていない。一方、互いに不信感をもったままだと会わないではいられない。「横のつながりが大切です」と言う人は多いが、そういう人は物事の本質がわかっていない。垂直の軸をしっかりもってこそ、横の関係なのだ。だからこそ、執行氏は孤独を恐れない。
 本書にこう書かれている。
「孤独を多くの人が嫌うのは、孤立と勘違いしているからなのです。孤独は人間形成の核になるものであり、孤立は人間性を喪失した状態をいうのです。この二つの概念は正反対なのです。
 私は孤独を『自己固有の魂を求め続ける人生が招く生き方であり、それは必ず高貴さを伴う』と定義している。自己固有とは、ただ一つの生命である自己がどのように、普遍的な生命や遍満する宇宙と結びついているかの探求と言えます。
 自らを失うものになっていくのが孤立で、自らを創ろうとする行動が孤独なのです」
 自分は何なのか、ではなく、何が自分なのか。
 その根源を問い続ける執行草舟。当然ながら、国家のあり方にも一家言ある。
 横野郎が鬱陶しいのは私も同じ。そうやってどんどん薄っぺらになっていくんだよ、と内心毒づいている。
 そんな私にとって、同感しきりの縦野郎だ。
(160116 第608回)

 

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