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紺碧の将

師の死

2015.11.20

SONY DSC 沈痛な思いでこれを書いている。

 昨日、師である内海隆一郎先生が亡くなられた。7月から闘病生活を続けていたということもあり、心のどこかではある程度の覚悟をしていたものの、いざ悲報に接すると哀しみは膨れあがるばかりだ。

 

 内海先生は若かりし頃に書いた作品で幾たびも芥川賞や直木賞の候補にあがったが、残念ながら賞を射止めることはできなかった。その後、失意してか、編集者の道を歩むことになる。
 20数年後、再び文壇に登場し、ハートウォーミングという独自のジャンルを開拓し、一定の読者を得る。それは市井の人々の日常を題材にした心温まる短編(あるいは掌編)である。読むと心がほっこりするような作品を多数編みだし、著作は50冊以上を数える。
 私は『魚の声』という、ちょっと異色の、自然と交感するというテーマで書かれた短編集を読んだことがある程度だったが、その時の印象は心の奥底にしっかりと刻まれていた。
 また、内海先生のかつてのお弟子さんが、当時私が編集していた『fooga』で連載していたという事情もあり、私が書いた『魚の声』の書評をたいへん気に入ってくださったということも知っていた。しかし、一度もお会いすることもなく、その他の作品を読むこともなかった。
 あれは一昨年の10月頃だった。いきなり天から声が聞こえてきたのだ。「内海隆一郎を読め!」と。声というより、直感というべきかもしれない。それは激しくも明瞭な指示だった。
『魚の声』を再読し、シビれた。そして、ぜひともお会いしたいと思った。
 さっそく、くだんの元弟子の方に連絡先を教えてもらい、西武新宿線清瀬駅前の喫茶店「エンゼル」でお会いしたのがその年の11月。以降、『Japanist』に内海先生の作品を掲載することになった。
 昨年3月、先生のご自宅でコーヒーを飲みながら雑談している時だった。
「高久さん、小説を書く予定はないのですか」と唐突に訊かれた。じつは、ある歴史上の人物を主人公にしてセミフィクションのようなものを書いてみたいと思っています、と答えると、「セミフィクションもいいですが、その前にフィクションをきちんと書けるようにした方がいいですよ。以前、『fooga』に掲載していた作品、なかなか良かったですよ。ぜひ、一度見直してみてください。私が見てあげますから」と言われた。
「えー!! あの拙作を読まれたのですか」と驚いた。たしかにその雑誌の創刊から数号の間、拙作を掲載していたのである。
 その後、パソコンの奥深く眠っていた作品をひとつ取り出し、入念に推敲を重ねて先生にお送りした。
 すぐに返事があり、「なかなかいいですね。すでにプロの作家のレベルです」と言ってくれたものの、返ってきた原稿を見て愕然とした。真っ赤っ赤だったのだ。
 赤字で書かれた指摘のひとつひとつが「目から鱗」だった。私は文章もデザインもなにもかも、生き方もすべて独学だ。誰かに教えてもらったことはほとんどない。我流の塊だった。内海先生の言わんとしていることは、「余分な言葉を入念に取り除けば、ほんとうに表現したいことが自然と浮かび上がってくる」というものだ。以後、それを肝に銘じ、書き続けている。

 

 内海先生は厳しい。私のもう一人の師、田口佳史先生は大きな懐に包んでくれるような優しいお方だが、内海先生は容赦ない。ある時、技術的なことで質問をしたことがあった。たぶん、私が熟考した上での質問ではないと悟ったのだろう。
「それを自分で考えるのが作家の責務であり醍醐味です。そんな甘い考え方なら、早々におやめなさい!」とお叱りを受けた。安易な質問を許さない方だった。
 本気で叱ってくれるのが嬉しかった。どうでもよければ、赤の他人のことなど叱るはずもない。
 内海先生と最後に会ったのは、今年の5月15日。初めて会った時と同じ、清瀬駅前の昭和の佇まいを残す「エンゼル」だった。先生はジャケット、ベスト、革靴、ベレー帽に身を固め、現れた。いつもと違う服装だった。おそらく、私と会うのもその時が最後と思われたのだと思う。いつものように文学談義をたっぷりとし、駅前で別れた。もしかすると、これが見おさめではないかと直感が働き、視界から消えるまでずっと先生を見送った。よもや、その直感が現実になろうとは……。

 

 人が死ねば、体はなくなる。しかし、残るものがある。それは、その人と真っ正面から向き合って関わったという記憶だ。その記憶は、別の機会にだれかに引き継がれる。
 私はいま、そう思っている。
 合掌。
(151120 第595回)

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