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紺碧の将

山は水を生む

2014.08.03

常念岳、登頂 毎夏恒例の登山を楽しんできた。

 今年は北アルプスの常念岳。昨年、蝶ヶ岳に登った後、常念岳へ縦走する予定だったのだが、前日、冷蔵庫のように冷えたJRに乗って体調が悪化し、やむなく断念する事態に追い込まれた。よって、今回はリベンジであった。
 昨年のような苦しみは味わいたくないと、今年は入念に準備した。数回前の本欄にも書いたように、「ひたすら地下鉄階段昇降」という独自のトレーニング方法?を考案し、数日に一回実行した。歩いて5分ほどの国立競技場駅がその現場だ。大江戸線は新しい路線のために地下深く、往復すると320段ある。
 一回ごとに一往復プラスし、最終的に14往復までいった。つごう1時間前後、ひたすら昇り降りするのだ。朝7時頃とはいえ、この猛暑だ。汗でずぶ濡れ状態になる。何度もクラクラしかけたが、音楽を聴くことに集中し、予定通りやり遂げることができた。
朝日を浴びる登山家 その甲斐あってか、今回はほぼ楽勝だった。昨年までは急勾配になるとなかなか脚が上がらなくなったが、今年は一歩ごとに力強く上げられるという実感があった。その分、周りの風景や風の流れなどに意識を向けることができた。
 禅において、山と雲はセットである。昨年来、禅語を暗誦し、現在304まで覚えたのだが、山・雲・風・水という字が使われた禅語を思い出しながら歩いた。
 例えば、曹源一滴水、一片好風光、清風沸明月 明月沸清風、清風沸無塵、山花開似錦澗水湛如藍、薫風自南来、白雲自去来、白雲自在、行雲流水、白雲抱幽石、水急不月流、風来自開門、万波不離水、非風非幡、橋流水不流、山光無古今、山是山水是水、坐看雲起時、雲在嶺頭水流澗下、雲去山嶺露、雲流無心亦無心、雲従龍風従虎、水自竹辺流出冷、雲収山岳青、春風吹又生、不雨花猶落無風絮自飛、風来疎竹風過竹不留声、本地風光、掬水月在手弄花香衣満、歩歩清風起、上山路是下山路、山河並大地全露法王身、雲無心以出岫、微風吹幽松近聴声愈好、花発多風雨人生別離足、清風匝地有何極などという言葉を頭の中で反芻しながら歩いた。すると、自然と一体になれるような錯覚に陥り、疲れが感じにくくなった。言葉の力、偉大なりである。
穂高連峰 常念岳から見る穂高連峰の雄姿に言葉を失った。右に槍ヶ岳親分が鎮座し、左に目を向けると北穂高岳や奥穂高岳が並んでいる。槍ヶ岳親分はとても威張っているように見える。それはそうだろう、このとんがった頭だ。初めて本格的な登山をしたのが槍ヶ岳だったが、それ以降、私を登山好きにしてしまった親分でもある。
 下山のとき、ふと思った。頂上からそう遠くないところに沢が流れている。この水の源流はどこなのだろうと思ったのだ。前夜は雨も降らず、頂上の上に川があるはずがない。いったいこの豊富な水量はどこから流れてくるのか?
湧き出る水 おそらく夜露や地中に溜まった水が地表に集められ、流れてくるのではないかと思った。だとすると、山は水を生んでいるということだ。私たちはふだん、なにげなく水は上から下へ流れるものだと思っているが、上流には際限があるのである。にもかかわらず、水が流れてくる。地球という惑星の、完全無欠の仕組みを思わないではいられなかった。いったい、この緻密な仕組みをつくったのは誰なのだろう、と。
 筑波大学の村上和雄氏は、ある遺伝子を解読しているとき、「解読するだけでも大変な遺伝子情報をつくったのは誰だろう」という究極の問いにぶつかり、サムシンググレートと名付ける以外にない存在を知ったという。
 私たちは、人間は偉大で、なんでもわかっていると思っているフシがある。
 しかし、実際はな〜んにもわかっていないのである。山に登り、大きな「何物か」に包まれると、そう思い至るのだ。
(140803 第516回 写真上は常念岳頂上での私。その下は朝日を浴びる登山者。その下は常念岳から見える穂高連峰。その下は、頂上からさほど遠くないところに湧き出る水)

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