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自分が好きなことを見つけて無我夢中で取り組み、ひとつずつ目標をクリアする。そうやって愉しみながら、自分という人間をぶ厚くしていく……。今がベストで、未来には未知の楽しみがある。これが、多樂の本質である、と『多樂スパイラル』のまえがきで書いたが、その原理原則は今も変わっていない。

日々の生活のなかで、森羅万象に潜む多樂をいかに味わうか。心に映りゆくよしなごとを書き留めておこう。それが読者の方々にとって、なんらかのスパイスになればとの願いもこめて…。

 

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あまりに過酷な人生と引き換えに生まれる音楽

2013.06.14

交響曲第1番 なんという人生を与えられたのだろうか。この世には神も仏もいないのだろうか。

 作曲家・佐村河内守(さむらごうち・まもる)氏の著書『交響曲第一番』を読み、そう思わずにはいられなかった。途中、何度天を仰ぎ、神の采配(というものがあるのなら)を責めたことか。嗚咽をこらえることができなかったことは一度や二度ではない。一気に読ませられた本は久しぶりである。

 

 佐村河内氏は全聾である。まったく聴覚を失っている点はあのベートーヴェンと同じ。さらに、ひどいことに、いつも大きな耳鳴りが頭のなかで響き渡り、一日何度もやってくる発作のときは頭蓋骨が割れるほどの痛みだという。しかも、わずか数メートルさえも動けなくなるので、失禁することもたびたび。明るいところにいると発作が起きるので、いつも暗い部屋のなかに閉じこもっているか、外出する際もサングラスが手放せない。加えて、左指の腱に痛みがあり、ピアノを弾くこともままならないという。

 それでも、発作の合間のわずかの時間を縫って作曲に勤しみ、海外の名だたる音楽家による「もっとも偉大な作曲家は誰か?」というアンケートでは、現在生きている人で唯一、佐村河内氏が選ばれている。

 いったい、なんという偉業であろうか。言葉もない……。

 

 佐村河内氏は1963年、両親とも被爆者という被爆二世として生を受けた。4歳の誕生日から始まった母親によるスパルタ式の音楽教育は想像を絶する厳しさだった。しかし、守少年は耐えた。「もっと上手くなりたい、自分が好きな曲を弾けるようになりたい」という一心で練習する。

 小学校の入学祝いに何が欲しい? と母に訊かれ、すかさず彼は「ベートーヴェンの『悲愴』を教えてください」と頼んでいる。はじめは「技術的に無理だし、ソナタを弾くには手が小さすぎる」という理由で拒んでいた母もついに折れ、息子にその曲のレッスンを施した。

 10歳のある日、それまで鬼のように厳しかった母からこう言われる。

 「今日までよう頑張ったね。明日であんたはお母さんを抜くんじゃろう。もうお母さんがあんたに教えてあげられることはなくなったんよ」

 そう言って、母は息子を抱きしめたという。それまで頑なに標準語を用い、教師と生徒という立場を崩さなかった母だったが、その日の朝は広島弁を用い、母親に戻ったのだ。

 その後も佐村河内氏の音楽修業は続くが、高校生の頃から聴力が落ち始め、やがて耳鳴りに悩まされるようになり、ついに35歳のとき、すべての音を失ってしまう。

 それからの壮絶な人生をここで簡単に書いてしまうわけにはいかない。最大の理解者であった弟の死、視力のない女の子との不思議な交流など、まるで映画のように次から次へと筆舌に尽くしがたい出来事が押し寄せてくる。

 さて、佐村河内氏の最初の交響曲『第1番 HIROSHIMA』は、彼の人生さながらの壮絶さである。これまでに編み出された難解な作曲の技法を駆使しながら、魂の叫びを五線譜に書き連ねた。けっしてBGMになる音楽ではないが、心の奥底に残る、生きた音楽だ。

 今、私はこの音楽と向き合えることをとても幸せだと思っている。

 そして、佐村河内氏に平穏な日が訪れることを祈っている。

(130614 第431回 写真は、佐村河内守著『交響曲第1番』。カバーの表と裏にはびっしりと書き込まれた五線譜が)

 

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