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紺碧の将

法然が興したルネッサンス

2011.10.15

 京都の法然院は、以前から気になっていたところであるが、なぜか縁がなかった。銀閣寺の後、哲学の道を通って行こうとしたおりは、銀閣寺で思いがけず時間をつかってしまったことが災いし、法然院の入り口にたどり着いたとき、すでに閉門の時間であったり、南禅寺の方角から行こうと思ったときは、なぜか変な場所に迷い込んでしまい、とうとう行けずじまいであったりした。タクシーを使えば簡単なのだが、私は歩いて行ける範囲であれば、なるべくタクシーを使わない主義だ。また、京都の概略地図は頭の中に入っているという妙な思い込みが、ときどきそういった無駄な時間を作る原因になっている。

 ということもあり、去る9月に京都を訪れた際、今回はなにがなんでも法然院へ行くぞと心に刻み、無事訪れたのであった。

 京都にもいろいろな寺社がある。有名になりすぎて、俗化してしまったところも少なくない(だからといって悪いといっているわけではないが)。

 なぜ、法然院に惹かれていたかといえば、JR東海の「そうだ、京都行こう」キャンペーンのポスターで使われていた雪の法然院の写真があまりにも印象的だったからだ。

 山門をくぐると、両側に白い砂壇がある。そこで心身を浄めて穢れなき世界へ入ることを意味しているのだが、雪をかぶった山門と砂壇の風景がじつにしみじみとして、心の襞にしみ込んできた。

 

 鎌倉時代の初め、法然上人は、弟子の安楽・住蓮とともに、阿弥陀仏を昼夜に六回拝む念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えた。その後、ある事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪となり、その後草庵は長く荒廃することとなった。しかし、1680年(延宝8)、知恩院第38世萬無和尚によって再興されることとなる。

 法然上人の思想の原点は9歳のときにさかのぼる。父が殺害される光景を目の当たりにするという試練を与えられるのだ。それからの法然にとって、「生きる」ということは、そのトラウマを消化する作業にほかならなかったのではないか。

 それまでの平安仏教では、寺院への高額な寄付や厳しい戒律の保持が救済のための条件とされていたが、法然は専修念仏によってすべての人が救われる資格があると説いた。いわば、ごく一部の人たちにしか開かれていなかった仏教を一気に大衆化させたといっていい。そういう意味では、仏教のルネッサンスを興した人物といってもいいだろう。

 法然院には谷崎潤一郎など、幾人もの文学者が眠っている。

(111015 第288回 写真は法然院の山門)

 

 

 

 

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