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紺碧の将

感動は人間の財産

2011.09.04

 これから多忙期に入るが、その前にエネルギーを充填するため、芸術をたっぷりと味わった。東京オペラシティで東京都交響楽団の公演を聴いた後、サントリー美術館でヴェネチアン・グラス展を見、その後、ミッドタウンのレストランでイタリアン料理や発泡ワインを胃袋に流し込んでやったのである。

 ヴェネチアン・グラス展では、はからずも現代日本のガラス工芸作家の底力を見せつけられることとなった。繊細な感性と大胆な発想は、本家をはるかにしのいでいる。

 都響のプログラムはすべてモーツァルト。交響曲第38番・第39番とファゴット協奏曲。ファゴットという地味な楽器をメインにしてオーケストラとやりとりさせるなんて芸当は、いかにもモーツァルトらしい。

 私はモーツァルティアンを自称しているが、だからといっていつも彼の音楽を聴いているわけではない。モーツァルトが作曲した600余の作品はほとんどCDで持っており、主要な曲は細部まで覚えているので、新たな感動を得にくいということが大きな理由だと思う。

 しかし、日々生活しているなかで触れたくないものに触れたり、見たくないものを見たりという「まがいもの漬け」が度を超すと、体の奥底から「モーツァルトを聴かせておくれ〜」という疼いた声が聞こえてくる。生きるということは、清濁併せ飲むということなので仕方がないと思うが、なんといっても「まがいもの中毒」を中和するには、圧倒的な本物に触れることが最適である。この世に「本物」は数多くあれど、音楽において圧倒的本物はモーツァルトをおいて他にないだろう。ふだんはバッハやベートーヴェンやブラームスを聴く機会の方がずっと多いが、良くも悪くもそれらは「創られた音楽」だ。対して、モーツァルトのそれは「もともと自然界にあった音楽」(例えば、地上400キロ以上、大気圏内ギリギリあたり)であり、たまたまモー君がそれをギュッとつかんで譜面に写譜するという能力を持ち得ていたため、われわれ人間の耳でも聴くことができるのだというふうに私はとらえている。音に無駄がないというか、良くも悪くも作者の作為が感じられない。そのことは、モー君が書いた楽譜を見てもわかる。弦楽四重奏曲のいくつかを除き、ほとんど修正の跡が見られないのだ。おそらく、モー君はヘラヘラ笑いながら猛烈な勢いで自然界に流れている音楽を写し取ったにちがいない。

 ともあれ、モーツァルトをたっぷり体の隅々に充填し、来るべき仕事をやっつけるための準備を整えたのであった。

 

 いったい、いつから私は音楽の生演奏に魅了されてきたのかな、と考えていたら、その原点は18歳の頃、武道館で聴いたジェフ・ベックだったことを思い出した。当時のベックはヴォーカルなしのカルテットによるインストゥルメンタルに挑み始めた頃で、まったく新たな境地を拓いた直後だった。ベーシストとして同行したスタンリー・クラークがチョッパー奏法(弦を叩く奏法)を披露したのもその頃で、武道館全体に音楽が疾駆した。かと思うと、間接はずし技のようなブレイクをキメたりと斬新で緻密な音が渦巻き、さながらハンマーで脳天を叩かれたかのような衝撃を受けた。本気で「このまま死んでもいい」と思った。当時の高久青年は、あたかもメロンパンナちゃんのメロメロパンチを食らったかのようにメロメロになってしまったのである。あの、言葉ではなんとも形容しがたい感動は今に至るも明瞭に覚えており、私はそれほどまでに感動した体験があることをひとつの財産だと思っている。その後、ロック、ジャズ、クラシックのコンサートに通い続け、その中のいくつかは摩耗しない感動の記憶として今なお私の脳裏に刻まれている。

 ただ、悔いもある。レッド・ツェッペリンとボブ・マーリィを聴く機会を逸してしまったことだ。そのうちまたチャンスがあるだろうと思っていたのだが、前者はドラマーのジョン・ボーナムが急死して解散、後者は脳腫瘍であの世へ行ってしまったことによってその願いも潰えてしまった。その後、「人生は短い。欲しているものはどん欲に味わえ」と自分に言い聞かせている。

(110904 第278回 写真は北岳頂上付近から見たの風景。モーツァルトの音楽はもともとこの青い空のもっともっと上の方にあったものだと思う)

 

 

 

 

 

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